郵便受けを見ると、「神戸女学院大学」からお荷物が届いている。
げげ、また何か仕事を押しつけられたかと暗い気持ちで部屋に戻り、包みを開くと「御礼」とある。
私は神戸女学院大学からお給料を頂いている身分であるが、大学から「御礼」を頂く筋合いではない。
はて?
すると別便で大学の入試課からの封書があり、拝読すると、そこに「本学人間科学部の2003年度入試問題に著作の一部を使用させていただきましたが、そのような事情のために事前に許諾を得ることができませんでした。つきましては粗品を・・・」と書いてある。
なんと、本学の編入試験の問題に『「おじさん」的思考』の一章が使われていたのである。
私の脳裏にはただちに次のような光景が想起された。
人間科学部の入試出題委員のどなたかが入試出題を依頼されていたのを「ころっと」忘れていた。
「あの・・先生、今日が締め切りなんですけど・・・問題案を出してないのは先生だけで」
と出題委員長から研究室に電話がある。
げげ、これはまずいと思った某先生、電話がかかってくるときにちょうど読んでげらげら笑っていた研究所配布のウチダ本を見つめて。
「うーむ、これもご縁か」
とコピー機に駆け寄り・・・
まあ、人間科学部の先生方はウチダと違って「きちっと」した方ばかりであるから、そのようなことはなく、数十点の候補テクスト(丸山真男、小林秀雄などを含む)を数時間にわたって熟読玩味したのちに、
「これしか、ありませんな」
「そうですな、やはり、これしかないです」
とご英断を下されたというのが真相であろう。
ともあれ、敬愛するご同輩たちによって本学の入試問題にふさわしい見識と品格を備えたテクストとしてご選定頂いたということは不肖ウチダ身に余る光栄と言うほかない。
奇しくも本日の朝、旺文社からメールがあって、拙著の一部が日大文理学部の本年度入試問題に使われたので、来年度の「国語の参考書」に採録したいというお申し出があった。
学術論文の場合は「被引用回数」というのは、その論文のクオリティを測る一つの基準であるが、入試問題にたびたび引用されるというのは、どういう基準によるものなのであろうか。
私が考えるところの入試問題に用いられやすいテクストの基準は
(1)何を言っているのか、一読しただけではよく分からない
(2)しかし、再読、三読すると「なるほど、そういうことって、あるよね」と高校生(中学生)にも得心がゆく
(3)しかも、ところどころに読みにくい漢語や、やや専門的な術語がさりげなく配されている
(4)くわえて、文章に文法上の間違い、誤字脱字などがない(ことを祈る)
(5)さらにくわえて、高校生や中学生が受験の前に読んでいる可能性が低い(とほほ)
ということではないかと愚考する次第である。
「天声人語」の入試出題頻度が高いという理由で朝日新聞の購読者が一定数確保されているという動かし難い事実がある以上、私の書き物が入試問題に頻出するということになると、全国の受験生たちが、「とりあえずウチダの本だけはおさえとくか」という功利的ご判断によって拙著をまとめてお買い上げになるという展開もあながち幻想とばかりは言い切れぬのであるから、角川書店のヤマモト君もあまり心配しないようにね。
本日は開講二日目。
基礎ゼミの初日である。
基礎ゼミというのは、前年のカリキュラム改革提言によって今年度から導入された一年生対象のゼミである。
目をきらきらさせて入学したばかり、大学に対する期待がまだしぼんでいない段階での新入生をチアーアップして四年間がんばり通す気合いを入れようというシステムである。
14名のゼミ生を迎える。
一応私の書いたシラバスを読んで、何番目かはしらないけれど、ここを志望して集まってきた諸君であるから、そこはかとなく「雰囲気」に共通するものがある。
こういうところに迷い込んで来てしまうというのは、すでにしてある「ご縁」パワーが働いているのである。
現に、これまでの「名簿順でクラス分け」された場合には見られなかったことであるが、自己紹介が済んだあとに、さっそくゼミ生同士が携帯の番号交換を始め、「次の授業何? あ、私と同じだ、じゃ、一緒に行きましょ」とたちまちネットワーク構築が行われる。
数十行のシラバスを読んだだけでも、何となく「肌合い」の近い人間が集まってくる、ということはある。(14名のうち3名が同じクラブ(軽音研)希望だったし。武道系(弓道、柔道)も二人。KC出身者も二人)
そういう感受性を高めるということは、とてもたいせつな教育的課題なのである。
昨日の合気道の最初の授業でも申し上げたことであるが、「ライオンと殴り合いをして勝つ」ための戦闘能力を付けるのはたいへん困難なことである。
「ライオンと鉢合わせしても、逃げられる」だけの走力を付けるのもそれに劣らず困難なことである。
しかし、「あのへんに何かヤバそうなものがいるみたい・・・」と感じて、はるか手前で進路を変更することのできる身体感受性を開発するのは、それほど困難ではない。
私が合気道の稽古を通じて教えようとしているのは、そのような種類の身体感受性の開発である。
信号を無視してつっぱしってくるトラックをはねかえすのは常人には不可能である。
トラックから瞬時に身をかわす反射神経の開発もかなり困難である。
しかし、青信号であっても、「何か気分が悪い」での、横断歩道に足をおろすことができないという気の感応力の開発はそれほど困難ではない。
トラブルに巻き込まれても、それをちゃんと処理できる社会的能力を身につけることはたいせつであろう。
しかし、それよりもトラブルに「巻き込まれない」能力を身につける方が簡単だし、はるかに安全である。
セクハラ・ガイドの説明をするときに同じことをお話しする。
セクハラガイドブックは、セクハラ事件が起きた「あとに」どう処理するかについて精緻なプロセスを定めている。
しかし、セクハラ事件に「巻き込まれない」ためのガイドは制度的には存在しない。
でも、よりたいせつなのはほんとうはそっちの方だと私は思う。
セクハラ野郎は「セクハラ・オーラ」を発している。
そういう奴には「近づかない」というのが兵法であり、表裏であり、武道の要諦である。
「そんなこと言っても、ゼミの先生なんだもん、近づかないわけにはいかないでしょ」というようなことを言ってはいけない。
そういう人をゼミの先生に選んでしまったということがすでに気の感応が悪い証左なのである。
ライオンの存在に1メートル手前で気づいても、遅すぎる。
1キロ手前でライオンに気づく感応力があれば、何も起こらない。
制度の安全性を過信する人間は、気の感応が落ちる。そして、あとになってから「システムの欠陥」を指摘する。
でも、いくら適切に欠陥を指摘しても、その欠陥によって身に受けたダメージは回復されない。
システムはいつでもクラッシュする。
どれほど堅牢に見えているシステムも必ずいつかはクラッシュする。
家庭も学校も企業も軍隊も宗派も党派も国家も、それどころか私たち自身の身体も思考もいつかは必ずクラッシュする。
だから「もうすぐクラッシュしそう」な徴候に対するセンサーの感度を最大化するための身体能力の開発が「教育」の最優先課題だと私は思っている。
けれども、ほとんどの教育者は「いまあるシステムの不易性」というありえない前提に立って、生きるスキルを教えようとする。
それは話が逆でしょう。
生きるためのスキルは、「私たちがいま立っている基盤は必ず崩壊する」という前提に立つことなしには身に付かない。
だから、武術のすべての形は「足元が崩れるとき」「バランスが失われるとき」「階調が乱れるとき」をどのように感知し、それをどう次のシステムの構築に繋げるかということ「だけ」を教えているのである。
(2003-04-11 00:00)