守さんから送って頂いたTV版『ツイン・ピークス』全29エピソード踏破の旅がようやく終わる。
パイロット版から『ローラ・パーマー最期の七日間』まですべて見るのにざっと3週間ほどかかってしまった。
残念ながら劇場版『ツインピークス』である『ローラ・パーマー最期の七日間』はぜんぜん面白くなかった。
だって、ララ・フリン・ボイル(ドナ)もシェリリン・フェン(オードリー)も出て来ないんだもん。メチェン・アミック(シェリー)もワンカットだけだし。この美少女三人がシーンが変わるごとにかわりばんこに出てくる、というのが『ツインピークス』のいちばん美味しいところなんだから。悪いけど、ローラ役のシェリル "しもぶくれ" リーひとりでは長尺は持たない。
さて、この長きにわたった「デヴィッド・リンチの旅」はもとをただせば、『マルホランド・ドライブ』を見て、『ロスト・ハイウェイ』の構造との相同性に気づいたウチダが、それならば『ツインピークス』も同一の構造を反復しているに違いないという仮説を立てたことに始まる。
まず私が一月ほど前にTV版『ツインピークス』未見の段階で立てた仮説というのをもう一度ご紹介しよう。
(前略)デヴィッド・リンチもまた観客がもっとも恐怖しするのは「物語全体を整序するような情報の不足」であることを熟知している(あらゆるパニックは、「情報が不足」しているときに、人々がつねに「最悪の場合」を想像してしまうことから始まる)。
リンチは観客をパニックに誘い入れるために、まず最初に映画の登場人物たちをパニックに誘い入れる。
推理小説がそうであるように、観客は(同じく「情報の不足」に苦しんでいる)「探偵」役の登場人物に焦点化し、彼の「情報への渇望」を導きの糸として、物語の中を同じ足取りで進んでゆく。
『ロスト・ハイウェイ』でも、『マルホランド・ドライブ』でも、ある中心的人物の「アイデンティフィケーション」が物語の縦糸であることは変わらない。そして、その「身元調べ」のクライマックスにおいて、「探偵役」の登場人物その人が「失踪」してしまうというサスペンスの構造も酷似している。
私はリンチのTVシリーズの『ツイン・ピークス』は未見なのだが、もしこの説話構造にリンチにかなり以前からこだわりがあるとしたら、当然『ツイン・ピークス』ではFBI捜査官のカイル・マクラクランが犯人探しの決定的瞬間に「失踪」するという話型が採用されていることだろう。(あ、ちょっと愉しみになってきた。今晩TSUTAYAに行って借りて来よう)
観客をある人物に同調して映画的物語の中に踏み込ませたあと、その人物を「消して」、物語の中をあてどなく浮遊させること。リンチが採用しているサスペンスの法則はおそらくそういうものだ。
太線で強調した点をご覧頂きたい。
ウチダの予言は正しかった。(ウチダの予言は「予言通りになっても、誰も喜ばないこと」については実によく的中するのである)
『ツインピークス』のエンディングについては賛否両論、「納得できない」というご意見も多かったかにうかがっているが、あれはこの「リンチ流サスペンス」の説話構造からすれば、必然的の結末であり、あれ以外の結末はありえないのである。
実際に、私自身、3週間のあいだに毎夜を共にするうちに、クーパー捜査官への親しみと信頼が日々深まり、ついには「彼がすべての謎を解いてくれるにちがいない」という「デヴィッド・リンチの世界においては決して起こり得ないこと」をいつのまにか期待し始めていた。
愚かであった。
当然にも、最後に自らが「予言通り」の結末を迎えて、ウチダはその衝撃に打ちのめされることとなった。
「怖い」
分かっていても「怖いもの」は怖い。
この不条理さには構造的一貫性があると分かっていても、不条理なものはやっぱり不条理なのである。
引き続きデヴィッド・リンチ踏破の旅は続く。
今夜は『イレイザーヘッド』、続いて『ブルーヴェルヴェット』、『砂の惑星』、『エレファントマン』といつまでもどこまでもリンチの悪夢の夜は続くのである。
(2003-04-10 00:00)