4月6日

2003-04-06 dimanche

快晴。隣の芦屋川畔は「さくら祭」でにぎやかである。
私は掃除、洗濯ののち、たまった大学関係の公文書をばりばり書く。
何度も書くが、私は官僚的なエクリチュールにまったく違和感を覚えない人間である。
出たばかりの『教員評価制度の導入と大学の活性化』という本(25.700円もするんだぜ)を読む。
そこには大学基準協会や文部科学省の人々が、私が去年自己評価委員会の「教員評価制度の導入の必要性」に書いたこととほとんど同じことを書いている。
別に私に先見の明があるわけではなく、「そういう思考法」に憑依されると、そういうものを書いてしまう体質なのである。

本学は教授会主導で教員評価制度導入を決めたのだが、これはどうやら日本の私学では希有の(おそらく最初の)事例らしい。
GPA制度の導入は日本の大学では四番目になる(たぶん)。
どの大学にも「こういう制度をいずれ導入しないとまずいよな」と思っている先生はたくさんおられるはずである。
それがなかなか実現しないのは、意思決定プロセスの煩雑さが大きな原因である。
(その点、うちの大学のようなコンパクトなサイズの大学は合意形成が簡単だ)。
しかし、いちばん大切なのは、やはり「合意をとりつける」ときのマナー。つまり「説得のしかた」であろうかと思う。
本学で教員評価システムの導入に原則合意が得られたのは、提案者である自己評価委員会が「これはベストの制度ではありません」ということをはっきりさせてから話を始めたからであろうと思う。
導入するとこういうメリットがあり、こういうデメリットがある。導入しないとこういうメリットがあり、こういうデメリットがあるということをごくごくリアルかつクールにご説明する。
「提案する私の言い分が正しいわけではなく、反対するあなたの言い分が間違っているわけでもない。問題は純粋に定量的な水準にある」ということをはっきりさせておくと、議論は「噛み合う」。
一度議論が「噛み合え」ば、あとはみなさんIQの高い教授会メンバーであるから、おのずと話は落ち着くところに落ち着くのである。

話が混乱するのは、提案者が「私の言うことは正しい、私に反対するものは間違っている」という前提を採用するからである。
これは合意形成を求める場では決して取ってはならない態度である。
「私は正しい」ということを主張することは、「私は間違っている可能性がある」ということを明言することより、多数派形成を試みる上での成功の確率が低いからである。
言い換えると、「私は負ける用意がある」という立場からの提案と、「私は負けるわけにはゆかない」という立場からの提案では、「負ける」可能性を勘定に入れている提案の方が、「勝つ」確率が高い、ということである。
まことに不思議なことだが、組織というのはその成員に「正しい判断を強いる」ことによってよりも、「誤りうる自由」を許容するときの方が、「正しい判断」に達する手間が少なくて済むのである。
多くの「正しい」改革案が頑強な抵抗に出会うのは、それが「正しい」がゆえに、反対者の「反対する自由」「懐疑する自由」を損なうからである。
あなたの「反対する自由」「懐疑する自由」はつねに尊重されるでありましょう(だって、こっちの言い分もそれほど「正しい」わけじゃないんだから)と告知してから始めると、議論はその「保証」だけでとりあえず友好的な雰囲気のものになる。
十分に友好的な雰囲気さえ確保できれば、あとは何とかなるものなのである。

つねづね申し上げていることであるが、合意形成においてたいせつなのは、「合意形成することは大切だよね」という合意をあらかじめ形成しておくことである。
「ある提案についての合意」と「合意することについての合意」は水準が違う。
「合意の合意」は一つ次数の高い合意である。
民主主義というのは「多数決」のことではない。
そうではなくて、「合意することについての合意」が成り立つということである。
「反対する自由」「抵抗する自由」「懐疑する自由」、そして、「誤った政治的判断をする自由」を承認すること。自説に反対する立場をおのれ自身と等権利的なものとみなすこと、それが民主主義である。

と私は思う。
民主主義の原理をぜひ貫徹していただきたいと思う。(えっと、誰に向かって書いているかは、お分かりですよね?)

教員評価制度の導入と大学の活性化