4月3日

2003-04-03 jeudi

というわけで、早速「三軸自在合気道」を実験してみる。

まず天地投げ。
天地に切り分けるところで回転がかかるわけだから、その回転の軸を後ろにちょいと押すと、回転方向90度先に相手の身体がプレセッションで旋回してゆくので、それをかさにかかってさらに旋回させると、ぽてっと、倒れる。
なるほど。
この「相手が旋回するところをかさにかかって、さらに旋回させる」というのがミソなわけだ。
バイクが右にリーンして右コーナーを抜けようとしているときに、後ろからひょいと手を伸ばして、アクセル全開にしてやるような感じ、と考えればよろしい。
先方が自らそっちに行きたがっている方向にガツンと加速してあげるわけである。
これはご無体な。

次に入身投げ。
これは昨日書いた術理の通りにはゆかなかった。
入身に入って相手に回転運動を起こさせ、その回転軸を押す、というところまではよいのであるが、そのあとの旋回の方向が微妙である。
例えば、こちらが右半身で入身に入った場合、相手は右回転を始める。
それを後傾させると、原理的には私から離れるように旋回するはずである。
相手の左後方にすり抜けてさらにその旋回を加速しつつ下に落とすという(山口師範ふうの)入身投げなら術理に合うのだが、相手の右側にとどまったまま、という条件だと術理が違ってくる。
これについては宿題ということにする(答えの分かった人はご教示下さい)。

次に四方投げ。
表は術理通り。
裏の場合、相手の身体は回転をしない。
ということは、ほんとうは裏技の方がかかりにくいはずである。
にもかかわらず初心者は裏の方がはやくうまくなるし、私がやっても裏の方がきれいに決まることが多い。
これはにまた別のファクターが関与しているのであろう。
これも宿題。

次に一教。
これは裏も表も術理通り。
裏の場合は、とくにみごとだ。
右半身で入身に入り、右回転を与えつつ、後傾させる。当然相手の身体は90度ずれて私の手もとに旋回しつつ飛び込んでくる。それをさらに加速させつつ上から抑え込んじゃうのだ。
武道の型というのが、実に精緻な物理学的人間工学的理論に基づいて構成されたものであることをしみじみと納得。合気道は奥が深い。

というわけで、昨日今日と合気道を知らない人には全然面白くない話を書いてしまって申し訳ない。
しかし、ここで一般論に展開すると、やはり「型」というのは一種の「謎」として与えられている、という私の持論につながるのである。
「謎」であるかぎり、それは「テクスト」と同じである。
私たちはテクストを読む。
その読みは読み手に固有のものであり、読み手個人の来歴、語彙、教養、人種、性別、階級、幼児体験、トラウマ、セクシュアリティ、定期預金の残高、空腹度、飲酒習慣喫煙習慣の有無、直近の読書体験などにおおきく左右される。
同じテクストから同じ意味を読み出す読者は二人といない。
一人の読者でさえ、同じテクストから、読む度に違う意味を読み出す。
武道における「型」はテクストと同じく、ひとつの「謎」である。
それにはどのような解釈理論を当てはめることもできる。
そして、その解釈から読み出される「型の意味」はほとんど毎回違ってくる。
しかし、どのような解釈も、その「謎」の蔵するすべての意味を網羅したと揚言することは許されない。
テクストの場合と同じく、「型」についても「正しい解釈」というものは存在しない。
あるのは「貧しい解釈」と「豊かな解釈」だけだ。

「貧しい解釈」は「そこで行き止まり」というものである。
「豊かな解釈」というのは、そこから無数の「宿題」が出てくるような解釈である。

私は武道の「型」について、さまざまな解釈仮説を立てる。
武道のよいところは、「見当違いの」解釈をすると技が「かからなくなる」という実践的な検算が可能だということである。(文学ではそうはゆかない。どんな解釈をしようとも、「読んでつまらなくなった」ということはあっても、「字が読めなくなった」ということはない)。
その分だけ武道における「型の解釈」の方がシビアだということである。
「三軸自在合気道」ではいくつかの型については、きっちりと技がかかった。
今まで以上にうまくかかったものもある(天地投げがそうだ)。
しかし、うまくゆかなかったものもある。
理由としては、私の三軸自在理論についての理解が浅いということと(当然である。本を一冊読んだだけなんだから)、あるいは三軸自在的解釈だけではうまく説明できないファクターが合気道には含まれているということの二つの可能性がある。
これが私の得た本日の「宿題」である。
そして、この二つの「宿題」はどちらも、私にとっては、気分が高揚する種類の「わからなさ」を湛えているのである。

東京の朝日カルチャーセンターからお電話。
「ケアをひらく」というシリーズの講座で一席講じることになった。(これは医学書院の白石さんのプロデュース)
何を話していただけますか、というご質問なので、「八月ごろに自分が何を考えているのか予想できませんので、わかりません」とお答えする。(ひどい講師である)
6月には同じ東京の朝日CCで家族問題で信田先生と対談。10月からは月一で大阪の朝日CCで三回連続の講義をやることになっている。
「物書き」を止めたので、寄稿依頼はぱたりとなくなったが、その代わり「講演」の依頼がふえた。(たしか『期間限定の思想』の「あとがき」には「時評エッセイ講演コメントの類は打ち止め」と明記したはずなのであるが・・・)
「センセイにひとつ軽く笑いをとっていただいて、客寄せに・・・」というようなふにゃらけたオッファーであればただちにお断りをするのであるが、どれもたいへんにまじめな企画であるので、お断りできない。
それに講演はメディアに書くよりずっと気が楽である。
「ウチダの話を聞きたい」と思った人がスポットで受講料を払って聞きに来られるのである。
だから、「そんな話が聞きたかったんじゃない、金返せ」というようなことを言われる筋ではない。

「私が提供するはずのないものを求めてこの場に来たという、あなた自身の身体感受性の低さが今のあなたを損なっているおおもとなのである。たしか今日の講演は『そういう話』だったのだが・・・何かご異論でも?」