3月31日

2003-03-31 lundi

大学院聴講生の面接。
今年から男子も聴講可能になったということを先般からホームページで告知していたが、その宣伝の効あってか、15名の聴講希望者が詰めかけた。(「詰めかけた」とは大仰な、とおっしゃる方がおられるかも知れないが、本学の大学院比較文化学専攻は博士前期が一学年五名、後期が二名というこぢんまりした所帯、四月現在前期後期合わせた在学生総数が十名である)
たぶん奇特な方が二、三人見えるだろうとは思っていたがこれほどとは。
一人10分間でも二時間半か・・・といっしょに面接を担当した研究科委員長の山田先生はがっくりしていたが、実際には3時間半も要してしまった。(最後までお待たせしたみなさんすみませんでした)
長くなったのも当然で、聴講希望者の話がみんな面白くて、つい引き込まれて「いや、それでね、ぼくが思うには・・・」と一人ずつと話し込んでしまったからなのである。
それにしても多士済々、よくこれだけ色々な領域からいろいろなタイプの方が集まったものである。

「日本一ダンジリアス」な編集長、武闘派内科医、美容院チェーン経営者、元トライアスロン競技者の社長、住宅建材研究者、広告業界のキャリアウーマン、元関学のアメフト者いま新聞社員、司法試験浪人、元マンガ編集者、元製薬会社エグゼクティヴ、公立中学校の国語の先生・・・「お墓の研究者」である日文研のミヤタケが「ふつう」に見えたというのだからその多彩ぶりに諸君も驚くであろう。(ミヤタケを見たことがない人には分かりにくい比較であるが)

ともかく、この諸氏が四月から火曜五限に結集して、「日本の没落」について論じるのである。どれほど活気ある議論が展開することになるのか、考えただけで胸ときめくものがある。(はたして私に発言する時間は残されるのであろうか)
たまたまこの演習は(院生の登録者が少ないと寂しいからという理由で)深い考えもなく学部の「現代日本論」とも合同開講にしてしまったので、学生院生社会人入り乱れてのバトル演習となる。偶然登録してしまった学部の学生は父親ほどの年齢のおじさんたちの激論に巻き込まれてさぞや肝を潰すことになるであろう。
しかし、それは同時に「おじさん」たちにとっても「異物」との困難な、そして愉快なコミュニケーションの経験になると私は思う。

面接が終わったと研究室でぱたぱた仕事をしていたら、山本先生が遊びに来る。
二次手続きが終わってみたら、歩留まり計算が外れて、なんだかやたらたくさん学生が入学することになってしまったということをお聞きする。
もちろん、歩留まり計算が外れて、学生がぜんぜん来なかったというよりはずっと歓迎すべき事態なのではあるが、学生が増えすぎると、困ることも多い。
基礎ゼミのクラスも急遽増設しなければならないかも知れないし、だいたいロッカーとか足りなくなるんじゃないかな。
でも、いちばん困るのは、学生数が確保されると(毎年必ずそうなのだが)、制度改革、機構改革への意欲がいっぺんにしぼんでしまうことである。
「なんだ、これまで通りで、学生集まるんじゃないの・・・じゃ、別にいいんじゃない? 機構改革とかカリキュラム改革とか急がなくても。ま、とりあえず現状維持つうことで?」
というだらけた気分があっというまに教職員間に横溢してしまうのである。
機構改革制度改革というのは「体力があるときにやる」のが基本である。
財政的体力がまだあるときには何もしないで、学生が激減してからあわてたって間に合うわけないのである。
しかし、入学者数を知れば、教職員間に安堵の気持ちと同時に、気の緩みがいつのまにか浸透することは誰にも止められない。
困るんだけれど、これが制度改革の根源的矛盾なのである。
「この制度ではダメだ」ということが実証されないと制度改革は進まない。
すると、制度改革の急務であることを主張する人間は、無意識のうちに「制度がダメであること」、つまり自分の属する組織が次々と機能不全を起こし、瓦解してゆくことを願望するようになる。
場合によっては、進んで機能不全や組織の瓦解を仕掛けるようになる。
逆に、「この制度でいいじゃん、現状維持で」と思っている人は、改革派の必死の努力によって制度が「なんとか持っている」ということをまるっと無視して、「だから改革なんて必要ないんだよ」といって(それなしでは現状維持さえ果たしえなかった)改革の努力を妨害しはじめる。
組織をなんとか改善しようと思う人は、組織が目に見えて破綻することをひそかに望み、組織を結果的に破壊する人は、組織が健全に機能していることを喜ぶ。
世の中というのはなんとも面倒な仕掛けになっている。

そのあと上野先生も遊びに来て、同じ話になる。
上野先生は今日が最後で、四月一日から晴れて一年間のサバティカルである。(そういえば、山本先生も四月から「16年ぶりの役職からの解放」を喜んでおられた)
明日からお休みだというのに、上野先生はそれでも心配顔で、「大丈夫かなあ・・ゼミちゃんと開けるのかなあ・・・非常勤講師を今から急いで探した方がいいんじゃないか?」と気を揉んでいる。
「大丈夫ですよ、なんとかなりますって」と励まして、送り出す。
まことに責任感の強い方である。

夕方から体育館で杖の稽古。
誰も来ないので、二時間一人稽古をする。
まずたっぷり居合の形を遣ってから杖を十二本何度か繰り返し通して、最後に合気杖二の杖の組杖(日曜に研修会で2004年度ヴァージョンを習ってきた)をおさらいする。
あっというまに時間が経つ。
家にかえってメールと手紙に返信。母、兄と法事のことで電話で相談。
鶴岡の宗傳寺のお墓の管理を従兄から私たち兄弟に移すという「渋い」話で小津安二郎的な会話を愉しむ。
「でね、雄ちゃんがね、タカオのお墓のほうがあっちが持つから、鶴岡のほうはこっちでどうかって言うんだ」
「お墓二つともじゃ雄ちゃんもご苦労だからね。鶴岡はうちで持とうよ」
「いいかい、それで、話まとめて」
「ああ、いいよ。こんどの戒名の方は兄貴と折半でいいのかな」
「うん、半分出しとくれ。でも、一昨年いっといてよかったね、鶴岡」
「ああ、結局、あれが最後の家族旅行になったものね。オヤジさんも喜んでたし」
「ああ、いい功徳をしたよ」
(以下延々と『秋刀魚の味』的会話が続く)

ハードディスクの底からちょっと古いエッセイが出てきた。
イラク侵攻のことに触れている。なかなか予測がよく当たっているので、採録。
 

さよならアメリカ

 なんとなくアメリカという国が「おしまい」になりそうな気がする。
 「気がする」、というだけでべつにデータ的な根拠があるわけではない。
 しかし、世界歴史を徴すれば、あらゆる世界帝国はつねに興隆期があり、全盛期があり、退潮期があり、静かに歴史のうねりの中に消えていった。例外は一つもない。
 世界に覇を唱えたすべての帝国は没落した。ローマ帝国も、アレキサンダー大帝の帝国も、モンゴル帝国も、オスマントルコ帝国も、大英帝国も、その版図はいっとき世界を覆ったが、いまは見る影もない。スペインもポルトガルもオランダもかつては世界の海を支配したが、いまはサッカー情報くらいでしか私たちの日常生活にはかかわらない。
 だからアメリカも遠からず「滅びる」だろう。
 「滅びる」といってもべつに革命が起こるとか、国家が解体するというようなドラスティックなことが起こるわけではない。
 ただ、経済が低迷し、文化的発信力が衰え、科学も芸術も精彩を欠き、国際社会での信用が失われ、その発言に誰も真剣に耳を傾けなくなる、というだけのことである。
 あらゆる国は必ずそういう「年回り」が訪れる。
 人間と同じで、国にも「年齢」があるのだ。
 アメリカは「老齢」を迎えた。これは間違いない。
 ジョージ・ブッシュというような統治者が選ばれるということは、国民のあいだに「まあ、大統領なんて誰がやってもいいんだからさ、あんまり偉そな理想とか語らないで、とりあえず、話が分かりやすいやつがいいわな」というようなだらけた気分が蔓延しているということを意味している。こういう発想法はすでにして「もうろく」の徴候である。
 最近のアメリカの外交を見ていると、おのずから醸し出される威厳に人々が服すというより、すぐに「オレを誰だと思ってるんだ!」と怒鳴り出すので、それがうるさいから人々がしぶしぶ「はいはい」と言うことを聞いているような印象がする。
 この「オレを誰だと思ってるんだ」症候群は、私たちの回りでも、停年退職後の官僚やサラリーマンに顕著に見られるものであるが、それまでごく自然に享受していた社会的敬意が失われてゆき、「身の丈にあった敬意」しか受けられなくなったことに対する苛立ちの表現であり、これまた「ボケ」の最初の徴候として知られている。
 ハリウッド映画も「同じ話」の繰り返しになってきたし、アメリカのトップ企業のCEOたちも、小判のはいった瓶を縁の下に埋めて、それをどうやって盗まれないようにしようかどきどきしている「水屋の富」みたいにけちくさいものになってきた。
 外交、内政、経済、文化、どれをとってもいまのアメリカには如実に「ボケ」の徴候が見えてきた。
 だから遠からずアメリカも「おしまい」であろうと私は推察するのである。
 
 考えて見れば、アメリカが超大国になったのはそれほど昔のことではない。第一次世界大戦のとき、戦乱で荒廃しはてたヨーロッパから、生産拠点も金融センターも芸術・学術・娯楽のセンターも争って安全を求めてアメリカに逃げ出した。そういう巡り合わせでアメリカはスーパーパワーになった。アメリカはヨーロッパの諸大国が戦争しているときに二度とも「遅れて」参戦した。そのあいだにヨーロッパ諸国の経済は回復不能なまでのダメージを受け、アメリカはそのタイムラグに大儲けし、政治的キャスティングボートを握ることができた。
 第二次世界大戦のときも、結局戦災にあったのは真珠湾だけ。アメリカ本土は無傷のまま戦後を迎えた。
 その一方、東アジアには、イギリスからの独立をめざすインド、オランダからの独立をめざすインドネシア、アメリカからの独立をめざすフィリピン、それに加えて、対独協力のヴィシー政権(つまり日本の同盟国)が支配するインドシナを加えた巨大な政治圏ができつつあった。だが、帝国地主義的野望に血迷った日本はアジア友邦と同盟する代わりに、その植民地化をめざし、収拾できないほどに戦線を拡大し、勝ち目のない太平洋戦争にのめりこんでアメリカに大敗した。
 いわば、ヨーロッパ諸国と日本の「オウンゴール」で、アメリカのもとに世界を支配する力が転がり込んできたのである。
 いまさら言ってもせんかたないが、1930年代の日本には植民地戦争以外にいくつもの政治的オプションがあった。
 国内の軍国主義とテロリズムが抑制できていれば、為政者に世界戦略への洞察と外交センスさえあれば、そのとき日本は世界最強国の一角を占める開闢以来のワンチャンスに遭遇していたのである。そうしたらいまごろ日本語は国連の公用語の一つになっていたであろう。
 まあ、過ぎたことを悔やんでもしかたがない。
 とにかく、そんなふうにして「たまたま」アメリカは世界の超大国になった。
 そこには歴史的必然性などというものはない。戦況のわずかな違いによっては(もしもDデイ当日にロンメル元帥がノルマンディーにとどまっていて防衛戦の指揮を執っていたら、あるいはもしもヒトラーが暗殺されていたら)、ドイツ第三帝国があのまま世界に覇を唱えていたかもしれない。『高い塔の男』の描くように、あるいは『秋刀魚の味』で加東大介がつぶやくように、「もしも日本がアメリカに勝っていたら・・・」という仮定だって、まったく無根拠なものではなかったのである。
 歴史は無数の「もしも」の集積である。
 しかし、ある国が勃興するときには「おもいがけない偶然」が関与することが必要だが、その国が滅びるときには別に偶然も悪運も関与しない。自らすすんで粛々と滅びの道を進むのである。それは人間と同じである。男女が「たまたま」出会ってセックスしたので、「たまたま」私たちは生まれたのであるから、私たちの誕生には必然性はないが、私たちが死ぬこと、これは確実である。
 アメリカがどういうふうに滅びて行くのか、私にはまだそのシナリオはよく分からない。しかし、もしいわれるように来春にイラク侵攻作戦をアメリカが国連や国際社会の制止をふりきって単独で実行することでもあれば、おそらく未来の歴史の教科書は「このころからアメリカの国際的な政治的影響力はしだいに低下してゆき、国内での社会的な混乱もあって、往年の国威はもう二度と回復することがありませんでした」と記すことになるだろう。
 1960-70年代のベトナム戦争のときもアメリカは危機的だったが、「ベトナム反戦運動」というものがあり、公民権運動、ヒッピー・ムーヴメント、ロックミュージックなどの「対抗文化」がかろうじてアメリカを支えた。
 いまのアメリカにそのような国民的な規模の「対抗的な支え」は存在しない。
 「出てこいフセイン、ビン・ラディン、出てくりゃ地獄に逆落とし」というような下品な歌をロックシンガーやオペラ歌手に歌わせながら、アメリカは私たちには結末が熟知されたあの「いつかきた道」を歩んでゆくことになるのである。合掌。