3月29日

2003-03-29 samedi

東京の「中山読書会」(中山眞彦先生主宰)が「今月の一冊」に拙著『女は何を欲望するか?』をおとり上げになり、ついては著者を読んで「査問」しようという企画が出て、上京。
読書会に呼ばれて、査問されるというような危うい場所にのこのこ出かけるほど脇の甘い人間でウチダはないのであるが、お呼び下さったのがかつて「都立大学のイメルダ・マルコス」と異名をとった一橋大学の佐々木先生であるので、否も応もない。
佐々木先生にはウチダは院生のころからまるで頭が上がらないのである。(もっとも佐々木先生に頭があがる人間はわれわれの業界にはいないが)
傍若無人のウチダであるが、局地的には頭が上がらない先輩たちがいる。ご参会の西川直子先生、赤羽研三先生なども、その例外的少数の業界人であるので、本日のウチダは全般的に腰が低い(ええ! あれで「腰が低かったの!」と本日はじめてお目にかかった先生方は思われたであろうが、そうです、あれが私が「腰の低い」ときの状態なんです)
『女は・・・』はウチダ自身の自己評価ではあまり出来のよい本ではなく、(もっと時間をかけて書き直す余裕があれば、もう少しリファインされたものになったと思うのだが・・・径書房のO庭くんがせかすからさ・・・)。
本が出てから4ヶ月、朝日の高橋源一郎さんの書評をのぞくまったく何の反応もなかったので、「あ、お呼びでない」とおとなしく退場しようと思っていたのである。
意外なことに、佐々木先生は「ウチダくんの書いた中ではいちばんいいよ」と言って下さるし、読書会に来られた女性の研究者の方々からの評価もなかなかよかった。(これにはびっくり)
イリガライやフェッタリーが女性の文学語学研究者のあいだでも実はけっこう評判が悪かったということを今回はじめて知った。
それでも「このフェミニストって、ちょっと言ってることおかしくない?」ということを女性研究者としては言えない雰囲気というのが何となくあるらしい。
社会的リソースを「性間」で争奪しあっているという地政学的な基本構造がある以上、ここでフェミニストを批判することはいわば味方を背中から撃つような「感じ」がして、ためらわれるらしいのである。
だから、少なくとも知的な女性によるフェミニズム批判は「より厳密に、より根源的にフェミニスト的な立場」から以外のものは許容されないように私には見える。
その一方で、男性研究者によるフェミニズムへの言及は、「タイコモチ的」な「すりより」と頭ごなしの敵対か、そのいずれかであって、フェミニストの所説を祖述し紹介した上で、その理論的功績と瑕疵をあわせて吟味する、というスタイルを取る人はあまりいない。
そういう仕事をやはり誰かがやらないとまずいんじゃないかと私は思ってあの本を書いたのであるが、誰も相手にしてくれないので、「あら、そんなニーズはなかったのね」と頭を掻いて「こりゃまた失礼致しました」とずり下がったいたのである。
とにかく面白く読んで下さった上、「たいへんすっきりしました」と言って頂けたのは身に余る光栄である。
それでもなかなかきつい質問がびしびし飛んでくるので、結局、「その場で思いついた、とんでもない話」を縷々述べて批判をかわすという大技を使うことになった。
「その場で思いついたトンデモ話」というのは、世界を分節する二項対立の起源は「生者と死者」であり、それ以後のすべての二項対立はこの「幽明境を異にする他者の呪鎮」という起源の痕跡をとどめている、というものである。

人類学の教えるところでは、人類と他の霊長類を隔てる最初の境界線は、「葬礼を有する」ということである。旧石器時代に「死者と生者を区別する」ということを行ったのが、おそらく原-記号生成」、「原抑圧」だったのである。
それによってはじめて「象徴界」が出現した。
たぶん、葬礼がなされるまで、死者と生者は混在していたのである。それが「どういう状態」であるのか、人類である私たちはもう想像的にも追体験することはできないけれど。
ともかく、何十万年か前に、「生者と死者」は分割せねばならぬ、ということになった。
そして葬礼が営まれ、死者たちは「他者」というカテゴリーにくくり込まれたのである。
それはそこらの石や木と同じような「モノ」でありながら、にもかかわらず「もとは生者」という曖昧な存在である。彼らは呪謡や敬意や畏怖を生者に求める。
生者は死者を「モノ」のように扱いかつ「生者」のように扱わねばならない。ここにすべての「デジタル・ボーダー」がそれ以後帯びることになる宿命的な「ねじれ」が生じたのである。
以後私たちが採用することになるすべての二項対立は生者/死者の二項対立がはらんでいた根源的な「ねじれ」を再生産しつづけることになる。
発生的には生者/死者の二項対立につづく差異化が男性/女性である。
以後、大人/子ども、主人/奴隷、宗主国/植民地、健常者/異常者、常人/狂人、ブルジョワ/プロレタリア、ホワイト/カラード、帝国/属領、主体/他者・・・といった無数の「ヴァリエーション」が生者/死者のモデルを帰趨的に参照しつつ、構築されたいったのである。
だから、根源的差異は性差であるとする理説、性差やエロスを最終的な審級とする理説はどこかでつじつまが合わなくなるのは当然なのである。
イリガライは最終的な目標として性差を超えた究極的のエロス的「合一」をめざが、それがすべての死者が蘇って、生者と一つのカテゴリーに帰一するという「最後の審判」(あるいはエド・ウッドの『地獄の盆踊り』)の構図を下絵にしていることにイリガライご本人はたぶん気づいていない。
イリガライのうちにそういう構想が胚胎したのは、性差が死を模倣して形成されたからであって、その逆ではない。
人間にとってのもっとも根源的な「乗り越え不能」の断絶は性差ではなく、死なのである。というより、最も根源的な乗り越え不能の境界線を「死」のうちに見出すものを「人間」と呼称するのである。
だから、ジュディス・フェッタリーの、「アメリカ文学の目的は女性を死者として描くことだ」という主張は実はまったく正しいのである。
フェッタリーはそれを「男性中心主義」が人類の宿業だからであると説明しているが、それは話の順逆が反対で、あらゆるカテゴライズにおいて、「こっち側」の人間にとって、「あっち側」の人間は「死者」に類するものとして観念されるほかないのである。
というのも、「あっち側にある」という感覚そのものが死者のもたらす恐怖と魅惑を原型にして構成されているんだから。
だから、レヴィナスやラカンが「他者」と呼ぶものが起源的には「死者」を指すのは当たり前田のクラッカーなのである。

などということを話す。
こんなトンデモ話につきあってくれる人はいないだろうと思っていたら、意外やこの話が好評で、みんなわいわい議論を始める。
びっくりしたのは言語学者の藤田先生から、ジェンダー(文法的な意味での、性)が名詞を二分する先に、インド=ヨーロッパ祖語では、「生きているもの」(anime) と「生きていないもの」(inanime) の二分が存在したと教えていただいたこと。
つまり言語記号における世界分節では、ジェンダーによる差異化よりも生死による差異化が先行していたのである。
ウチダの口からでかませの「死は性よりも発生的には早く世界を分節した(だからレヴィナス先生のほうがイリガライより賢い)」という主張はこうして言語学的論拠を獲得したのである。
そういえば、フランス語初等文法を教えるときにどうしてフランス語では「継続相」と「完了相」の aspect の区別をうるさく言うのかよく分からず、「フランス人て不思議な世界観持ってますね」ですませていたのであるが、あれはそこにある事象が「アニメ/イナニメ」つまり「まだ生きているもの」なのか「もう死んでいるもの」であるのかをうるさく区別するインド=ヨーロッパ祖語の名残だったのである。
そういえば、『史記』に言う「六芸」とは礼・楽・射・御・書・数であるが、この君子の教養リベラルアーツの筆頭は「礼」すなわち「葬式のやり方」なのであり、「儒」の原義は白川静先生によれば、「葬礼専門」の巫祝なのである。
おお、すべての円環がいま音を立てて繋がった。
私がフェミニズムの理論を「なんか変だよなー」とつねづね思っていたのは、私が男性中心主義のセクシストであるから(だけ)ではなく、フェミニズムが「結果」と「原因」を取り違えていたからなのだ。

というわけでたいへん収穫の多い読書会でありました。
お手配頂きました早稲田大学の吉田裕先生はじめ、刺激的なご教示をたまわりました神田外国語大学の藤田先生、筑波大学の青柳先生に深くお礼申し上げます。おかげで本が一冊書けそうです。