3月14日

2003-03-14 vendredi

一昨日の朝日新聞、最後の e-メール時評に、「節税はいかがなものか」という一文を寄せた。
「税金を払うのは愛国心の至純なる表現である」というたいへんにまっとうな内容のものであったので、当然日本全国津々浦々から「お前は国税庁の回し者か!」というような罵倒メールが殺到するであろうと予期していたのであるが、二通「共感メール」が届いただけであった。ちょっと拍子抜け。
朝日新聞をご購読でない人のために、全文を再録する。

確定申告の季節になった。私の所得は給与と印税・原稿料だけで、必要経費はゼロであから、申告はたいへん簡単である。税金を払い終えると実にすがすがしい気分になる。
私はできるだけ多くの税金を納めて、国庫を豊かにすることが愛国心の発露の素朴なかたちであると信じている。だから、「節税」という言葉にはどうしてもなじむことができない。
「国益の確保」や「公共の福利」や「私権の制限」にはずいぶん熱心な政治家諸氏も、「国際社会への貢献」をめざす諸団体の方々も、こと「納税の義務」になると、とたんに熱意を失う。
なぜ愛国の至情や世界平和への祈願が納税義務の履行を動機づけないのか。おそらく、税金を国庫に託すより、使途を自己決定する方がより正しい選択がなされるという考え方が支配的になりつつあるからであろう。
しかし、その論法で「節税」が許されるのであれば、同じく他の「国民の義務」についてもひとしく減免が許されねば話の筋が通るまい。
t 憲法第26条に定める「子女に普通教育を受けさせる義務」については「節勉」が、第27条に定める「勤労の義務」については「節労」の追求が「自己決定」の原理に基づいて許されてよいはずである。
節労、節勉、節税。
できるだけ働かず、学ばず、納税しない。
それが国民の範例となるような国にどのような未来があるのか、私には想像が及ばないが。

繰り返し申し上げているように、私は「権力対私人」という二項対立図式を好まない。
「抑圧者対被抑圧者」も「強者対弱者」も「差別者と被差別者」も、どうも好きになれない。
このような善悪二元論は「子ども」にだけ許される思考法であって、いやしくも今ある社会システムの形成に「すでに参加してしまっている人間」が口にすべきことではないと思っているからである。
私は日本国のフルメンバーとしてさまざまの権利義務を仰せつかってすでに33年になる。
選挙権も被選挙権も与えられ、集会結社の自由も言論出版の自由も職業選択の自由も信教の自由も移動の自由も、すべて享受させて頂いた。
その上で「こんな日本」がある。
「こんな日本」にした責任の一部は私にあり、それゆえ私が「ひでえ世の中だな」という罵倒を口にするとき、その罵倒はそのまま私自身に帰ってくる。
したがって、私が「日本はろくな国じゃない」と言うときに、それは「批評」というよりは「自責」のことばなのである。
「困るじゃないか!」「すみません」という非難と謝罪を腹話術でやらないといけないのである。
そのことについては大方の国民はご納得頂けるだろうと思う。
問題は、この腹話術において、多くの方は「困るじゃないの!」という役ばかりやりたがって、「すみません」という役の引き受け手があまりいない、ということである。
私は「大人」というのは、こういうときに「誰もいないの? じゃ、ぼくがやるよ、その役」ということを言う人であると思っている。
私は先日の日記に、日本国憲法の定める三大義務「教育を受けさせる義務」「勤労の義務」「納税の義務」は「大人である義務」と同義であると書いた。
「大人」とは、「そういう人」のことである。
誰かがその役を引き受けないと話が始まらないような役を「じゃ、ぼくがやっときます」といって何気なく引き受けるような人、それが「大人」であると私は理解している。
このようなふるまいは「すべての国民は等しい権利を有し義務を負う」という前提からは導出できない。
許されているより多めに権利を行使する人がいるなら、誰かがその分の義務を抱え込まないと帳尻が合わない。そのときに、さらっと義務を多めに負う人、それが「大人」であり、それが日本国憲法が無言のうちに指示する日本国民の範例である。私はそう理解している。
私のところに来た二通のメールはいずれも「税金をできるだけ少なくしか払わないこと」が開明的で先進的な態度であるとする風潮を慨嘆したものであった。
「世論」のある傾向を代表するご意見ということで、ここに慎んでご紹介させていただく。
まず一通目はある自動車メーカーにお勤めの推理作家の方から

本日付の朝日新聞で内田先生の時評を拝読し、大いに敬服かつ共感しております。
自明の常識にもかかわらず、なかなか世に受け容れられていないのが残念ですが。
社会への貢献はどうあるべきかで、先日、他大学の某教授は「ボランティアこそ貢献の第一歩」と麗々しく書いており、小生は大いに怒ったものです。勤労と(その結果たる)納税こそが FIRST にして LAST ではないか、と。

「自明の常識」が「なかなか世に受け容れられない」のはどうしてなのであろう。
それについては二通目のメールがヒントをくれる。

ちょうど私の自宅の前が国税局の駐車場の出入り口なので、申告の時期には交通整理の警備員がでて周辺があわただしくなる。国税局一番のお祭り騒ぎは何といっても3月のM商の集団がやってくる日である。それが今日。
とにかく集団で嫌がらせ申告しにやってくる。税務署も「M商の方こちら」って、外の吹きさらしのテーブルで受付をやっている。ちゃんと差別している。
毎年迷惑だけど見るのは楽しみである。
だいたい3月15日の数日前に、数百人いや千人こえるのか、大勢で列をなして申告にやってくる。国税局周辺の道路は機動隊がでてうちの前も有刺鉄線みたいな車止めが置かれ、バリケード封鎖される。右翼団体の街宣車が何台も嫌がらせの演説と軍歌を鳴らして、「国賊M商は日本の敵だ!」と、朝から午後3時くらいまでM商と警察と怒鳴りあっている。この日は警察官が立ち並ぶ厳戒態勢なので、知らない人は何事かって驚くのだけれど。年に一度の大騒ぎ見物はうちの恒例行事である。

M商というのはさる左翼政党に関連する団体であるかにうかがっている。
左翼の政治党派ができるだけ納税しないことをその支持者たちに指示するのは、革命党派としては当然のことであって怪しむに足りない。その一方で福祉や弱者救済のために多額の税金を国庫から支出することを彼らが政府に要求するのもまた至当のことである。
できるだけ払わず、できるだけ使わせる。
まさに革命党派はそうでなければならない。
私はその点については何の文句もない。
しかし、一点だけ気になることがあるので、お尋ねしたいと思う。
この戦略が奏功すれば、いずれ国庫はカラになり、日本政府は破産するであろう。
現政府が破産して倒壊し、晴れて国家権力を掌握したあとに、その党派の諸君はどうやって破綻した国家財政を再建するつもりなのであろう。
それについてお聞きしたいと思う。
すでに国庫はカラである。
それまでのブルジョワ政府の発行した国債はもちろん償還には及ばない。そんなものは紙屑である。買った方がバカなのである。かくして借金はチャラになった。
しかし、だからといって、革命政府発行の「人民ニッポン」新国債を買う人がいるだろうか?
私は懐疑的である。
では、とりあえずアメリカから借款?
うーん、ちょっと無理でしょ。なにしろ安保条約廃棄しちゃってるんだから。
ロシアも中国はどうか?
先方も手元不如意だからむずかしいだろう。
多少融通してくれるとしても、借款の代償に軍事条約の締結と、同盟費の負担と、在日駐留軍基地の永久貸与くらいは要求してくるだろう。
それはちょっと困る。
となるとどうなるか。
税金しか手はないではないか。
「人民にできるだけ多く払わせ、できるだけ国庫から人民には支出をしない」ということが革命政府のとりあえず喫緊の財政方針となる他ない。
覇権主義的諸国家の内政干渉をはねつけるためには国家防衛が最優先だから、税金の過半はまず軍備(核武装だな当然。だって一番低コストなんだから)に使われなければならない。
残りは革命推進の原動力たる党官僚と公務員の給与にまず配分される。
なんだか「どこかで見たような風景」である。

「できるだけ税金を払わず、できるだけ国庫から支出させる」という思想は「できるだけ税金を払わせ、できるだけ国庫からは支出しない」政体を支えるイデオロギーと同質のものであるということを「節税」する人たちはたぶんご理解されていない。
「外部に邪悪なものがおり、それが私の自己実現をはばんでいる」というおのれのイノセンスを前提にして状況を理解する思考は、気が向けば、どこまでも「身内」を縮小することができるし、どこまでも「外部」を拡大することができる。
私はこういうものを「子どもの世界観」であると考えている。
もちろん「子ども」が悪いわけではない。
イノセンスはよいものである。
邪悪なものに対する激しい憎しみはしばしば大きなエネルギー源になる。
しかし、みんながみんな「子ども」では世の中は立ち行かない。
だから、ある程度はいてもかまわないし、いた方が愉しいけれど、あまり数が多くても困る。
できれば、ある程度以上の数の「大人」がいないとまずいのではないかと私は思っている。

私が申し上げているのは、「払える人はばりばり税金を払い、困っている人には国庫から惜しまず支出する」というような政体が「望ましい」ということ、ただそれだけのことである。
もちろんM商のみなさんが節税に腐心されるのは彼らの自由である。
けれども、彼らが「節約した」分の税金は誰かが肩代わりしなければならない。
私はだから、「君たちもきちきち税金を払い給え」というようなことは申し上げない。(「子ども」にそんなこと言っても仕方がない)
そうではなくて、「じゃあ、おじさんが代わりに多めに払っといて上げるね」と申し上げているのである。
世の中というのは不公平なものである。
しかし、「まったく不公平なんだよね、ははは」と笑ってすませる人間が一定数存在するからこそ、この「不公平な世の中」はそれでも人間にとって居住可能な空間になっているのである。

「責務は人より多めに引き受けなさい」ということを私はレヴィナス先生から教わった。
「税金は早めに払ったほうがいいですよ」ということは甲野善紀先生から教わった。
こういう方々がいるおかげで世界は住むに値する場になっているのだと私は思う。