3月4日

2003-03-04 mardi

今日はオフだろうと思っていたが、ダイヤリーを見たら後期入試であった。やれやれ。
春休みのはずなのだが、「何もない日」というのがまるでない。
毎日、あちこちかけずり回っている。
角川の初校ゲラを真っ赤にして送り返したと思ってほっとしていたら、すぐに新曜社のゲラが届いた。
おまけに枚数が足りないから、あと30頁分書き足してという注文付きである。
がーーーん。
たしか洋泉社の原稿も今月中にお渡ししますと約束してしまったような気がする。(気がするんじゃなくて、ほんとに約束したのだ。そのときは三月なんて三月になるまで来ないだろうと思っていたのであるが、ちゃんと二月が終わると三月は来るのである)
あああ。
本願寺方面からもきついキックが入ってきた。
あああああ。
しかし、私が今書いているのは海鳥社のレヴィナス論なのである。これにきっちりカタをつけないことには、次の仕事にはかかれない。
どうすればよいのであろうか。
よく分からない。
よく分からないので、とりあえず、ウィスキーを呑みながら、新曜社のゲラを直す。
たちまち酔眼朦朧となって、「休憩室」に倒れ込んで、デヴィッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』の続きを見る。
二度目なのに、なんでこんなに怖いんだ。(昨夜見てたんだけど、あまりに怖くて、途中で、何度もあたりを見回した。本棚の文庫本が「ばさっ」と倒れただけで「ひええええ」と跳び上がる。誰かがあのとき私の背中を「とん」と叩いたらおそらく心臓麻痺で即死していたであろう)
『ロストハイウェイ』の映画批評については、「おとぼけ映画批評」をご覧下さい。


映画を見終わって、井上雄彦の『バカボンド』の16巻をごろごろしながら読んでいたら、甲野善紀先生から電話がかかってきた。
先日の朝日新聞の記事が出たあと、甲野先生のホームページのカウンターがぐるぐる回りだして、とうとう一日3000ヒット(!)になってしまったそうである。
岩波の本もなんだかとんでもない売れ行きだそうである。
これはいったい、どのような社会的地殻変動の兆候なのであろうか、ということについて先生とお話しする。
甲野先生はつねづねご自身で言っておられるように、ほんらいはおそらく「裏の人」である。
メインストリームに対するアンチテーゼの鋭さが持ち味なのだが、そのような尖鋭な批評性が「朝日・岩波・NHK」的なメインストリーム・カルチャーによって「公認」されるということは、それだけ「表」のシステムにガタが来ているということなのかもしれませんね、という結論に落ち着く。
ある種の文化的な「パラダイム・シフト」が武術の蔵する術理の深みと普遍性をひとつの支点にして、いま進行しつつあるのかもしれない。
それが日本の伝統的な文化の適切な再評価と、それに基礎づけられた「まっとうな」社会の再構築にリンクするのであれば、(武道と能楽と大学教育への「レスペクト」の回復のために日々奔走しているウチダとしても)たいへんにうれしいことである。
そういうトレンドが生まれつつあるのだとしたら、ほんとうにうれしいことである。
話のついでに、新曜社の武道論の「あとがき」を甲野先生におねだりしたら、快諾して頂けた。
ただでさえ殺人的に忙しい甲野先生にまたまた原稿を頼んでしまって、まことに申し訳ないけれど、私の本も、あえて言えば、甲野先生を波頭とする巨大な怒濤のひとつの細波ではあるわけである。
だから、甲野先生が私の本の「あとがき」を書いて下さるのは、若旦那がへっぴり腰で売り歩いている「唐茄子」を、「おう、若えの、あすびが過ぎて勘当食って、唐茄子売ってるんだってね。そりゃあ、ご苦労なこった。景気づけに二つ三つ買ってやろうじゃないの」とお買いあげ下さる奇特なお客のようなご配慮なのである。(@『唐茄子屋政談』)(分かりにくい比喩ですまない)

佐藤友亮さんの「そこが問題では内科医?」の連載が始まり、そこにさらに江弘毅さんからも「連載」の原稿が送信されてきたので、今週二本目の新連載の始まりである。
「江弘毅の『街でいちばん "だんじり" なエディターの甘く危険な日々』というタイトルを恒例により勝手につける。
なんだかすごいことになってきた。
連載ウェブ日記はすでに私のホームページでは8本が掲載されているが、佐藤さん江さんで、ついに連載10本となった。
ちょうどよい機会であるから、なぜ、私がこのようなかたちでホームページをみなさんの連載エッセイに開放しているのか、その理由についてご説明したいと思う。

おそらく現在世界には数億からのウェブサイトが存在するであろうが、個人が提供しているものは、そのほとんどすべてが「ホームページ」という質のものである。
つまり「私的言説空間」である。
もちろん「公的言説空間」という名称で管理されている言説編制に「私」的なものを対抗させるのは生産的なことだ。
それは70年代にIBMのスーパーコンピュータに Apple がパーソナル・コンピュータを対抗させたのと同一の文脈で理解できる。
それは「均質的なもの」の支配に対して「個別性・多様性」の市民権を要求することだ。
しかし、「個別性・多様性」の拠点であるべき「ホームページ」が私的言説空間として、「私」の均質性に充満しているとしたら、どうだろうか。
「私の日記」「私の経歴」「私の愛読書」「私の愛犬」「私の好きな音楽」・・・
「公的空間の均質性」に不快を感じる人が、自分の「私的空間」が均質的であることに何の不快も感じないというのは、なんとなく背理的であるような気が私にはする。
私は自分が「首尾一貫していること」にさえ不快を感じる人間である。
「自分が首尾一貫していることに不快を感じる人間である」ことの首尾一貫性に対してさえ不快を感じる人間である。
と、書いている語り口の常同性についてさえ不快を感じる人間である・・・(あ、もう止めよう。きりがないから)
というわけで。
私はわがホームページが「ウチダ的なもの」に充満することを是非とも避けたい。
だから、ホームページのデザインはフジイ芸術監督にお任せし、BBSには好き放題「ウチダの悪口」を書いていただいて、コンテンツのメインを「他人の日記」にしたのである。
もし私に個性というものがあるとしたら、それはせめて「自分の個性のようなものを固定的にはとらえたくないんだよ、オレはさ」的な「メタ個性」という水準に定位したいと思っている。
どっちにしても、「自分の常同性から逃れるみぶりの常同性」からは誰も逃れられないから、仕方がないんだけど、「その『不能性』に気づかないでやんのバカだね、ウチダは」と思われるのはヤなのである。
となると、自分のバカさを誰より先に指摘するしか手がないわけだ、これが。
で、それをひとりでやると、いま書いている文章のような自己言及のスパイラル的な「しょーもないもの」にしかならない。
これは書いている本人もうんざりするし、読む方だって、「ウチダよー、おめーは、そんなにまでして、人から『バカだ』と思われたくないわけ?」というため息まじりの半畳が入ることは必至であるから、これはウチダの美意識からしても是非とも避けたい事態である。
というところではじめて「他者」という問題に出会うわけである。
自分のバカさについて自己言及しなくても、バカだと思われずにすむ方法。
それは「他者」にことばを託すことである。
これがどういうわけか、「コロンブスの卵」だったのである。
というわけで、私は自分のホームページの「玄関」を「自分の日記」ではなく、「他者の日記」に譲るという妙手を思いついたのである。
つまり私のホームページをそっくり「シニフィアンにする」という手である。

むかし、パラシオスとゼウキシスが「どちらがより写実的に絵を描けるか」競ったことがある。
ゼウキシスは葡萄の絵を描いた。
それがあまりに写実的だったので、鳥が啄みに来た。
ゼウキシスは勝ち誇ってパラシオスを振り返った。
ところが壁に描かれたパラシオスの絵には覆いがかかっていて見えない。
「おい、覆いを取って、絵を見せろよ」
とゼウキシスが言った瞬間に勝負は決まった。
パラシオスは「覆いがかかって見えない絵」の絵を壁に描いていたのである。(おしまい)

何かを「意味ありげ」に見せるもっとも効果的な方法は「これには何の意味もない」と宣言することである。
少なくとも、そう宣言する人間はそこに欠落しているものが何であるかを知っているということをこの宣言は暗に告知するからである。
同じように、いかなる懐疑をもまぬかれる「シニフィエ」を基礎づけるための最良の方法は「すべてをシニフィアンにすること」なのである。
私の「パーソナル・アイデンティティ」というのが、このホームページを通じて私が到成しようとしているものである。
だとすれば、そのためにもっとも効果的な方法は、「私の中で他者が語ること」ではあるまいか。
なるほど、と私はラカンを読んで思った。
私たちが「象徴界」の住人であるというのは「そういうこと」である。