そういえば右の鼻が詰まって久しい。去年の秋から鼻が通らない。どうしてなんだろう。
腹部の疼痛も一月ほど続いている。どうしてなんだろう。
背中の筋肉痛ももう半年を過ぎてまだ治らない。どうしてなんだろう。
その全部が同時に不調になると、さすがに夜中に苦しくて目が醒めることもある。
でお、ま、いいか、いますぐ死ぬわけじゃないだろうから(たぶん)、とふとんをかぶってまた寝てしまう。
この「ま、いいか」という諦めのよさが年を取ることのよいところである。
なにしろ体調が万全ということがこの10年くらい一日としてないのである。
体調が悪いのが常態なので、もう慣れちゃったのである。
病気でありながら平然と武道の稽古をし、能のお稽古に通い、ばんばん原稿を書き、がぶがぶ酒を呑んでいるわけである。
具合が悪くても、別に日常の活動に支障がないなら、それはもう「具合が悪い」とは言われない。
ただ、日常的に三重苦なので、もう一つ加わるとけっこうしんどい。(歯が痛いとか、微熱があるとかいうことになると、四重苦五重苦だから)
今日は雨が降って低気圧だったので、頭がどんより重く、当然古傷の膝も痛みだして、三・八重苦くらいである。
それでも早起きして、『学士会報』用の原稿を一本(12枚)書いて、能のお稽古に出かけて『鵺』のおさらいをして、『船弁慶』の舞働を見て頂く。
帰りに、四国の守さんに丸洗いしてもらうために紋付きを送り、ついでに東京のフジイに「快気祝」を送り、岩波書店から送ってもらった『女性学事典』のお礼状を書く。
マルちゃんの天ぷらそばを食べてからレヴィナス論の続きを書いているうちに時間になって大学へ行き、居合の稽古をして一汗かいてから、杖のお稽古。
帰りにTSUTAYAに『アリー』のDVDを返して、お風呂上がりにビールを呑みながら『ミーツ』を読んで(「街場の現代思想」もこれで最終回)、守さんに送っていただいた「うどん」を食べる。(美味しい!)
身体中あちこち痛んで具合はさっぱりだけれど、それでもよろよろ生きている人生はけっこう充実。
何日か前の新聞でサッカーの中山雅史さんが、毎朝起きるときは全身ぼろぼろに痛くて、ぐえーっとうめきながら起き出すんだけれど、それでもプレーをするときは「平気」という話をしていた。
トップアスリートというのは、「いつも絶好調」の人のことではなく、全身ぼろぼろでも「別に・・・」という感じでそれなりのパフォーマンスが出来る人のことらしい。
こっちはたとえ足腰が立たなくても、目が見えて、指が動けばとりあえずアキナイに支障はないというお気楽な渡世である。文句を言っては罰が当たる。
ワインを呑みながら『たけしのTVタックル』を見ていたら、イラク攻撃についてあれこれと議論をしている。
どういう議論が展開されているのか、よく分からない。(みんながなり立てて人の話を聞かないんだもん)
「国際社会でバカにされないために・・・」というのが出席者全員に共通の前提らしかったけれど、こういうような排他的なマナーでしか議論できないような人々が国際社会で誰かの敬意も得るということがありうるのだろうか。
私は懐疑的である。
鈴木晶先生が『朝まで生TV』を見て、なんだか厭世的になっておられたようだけれど、私も同感である。
戦争が近いときであればこそ、それにどう対応するかという政治的岐路にあるときだからこそ、自説はていねいに静かな声で語り、もっとも受け容れがたい異論に忍耐強く耳を傾けるという対話的マナーがふだん以上に意識的に採択されるべきではないのだろうか。
「危機に臨んだときに声がでかくなる奴には決してついてゆくな」というのは私が半世紀生きてきて確信を込めて言えることである。
しかし、そのような知見を共有する人たちは、ほとんどメディアには出てこない。
(2003-03-03 00:00)