2月26日

2003-02-26 mercredi

今日、ホームページを開いて「あれ、デザインが変わったな」とお気づきになったあなた。
そうです。永久芸術監督が1年半にわたる闘病生活から社会復帰してきたのです。
フジイよかったなあ(涙)
ところで、いきなり新連載はじまっちゃったので、またデザイン直しておいてね(人使いの荒いもと指導教官)

今日(28日)から新連載が始まる。
ドクター佐藤の「そこが問題では内科医」。
去年の秋に高砂のコミュニティカレッジで講演したときに、最近の医学部の学生は医療に必要なコミュニケーション能力を欠いているという阪大医学部の先生のお話をマクラに振ったことがあった。
「まっくた最近の医学生などというのは、ろくなもんではないようで・・・『おい熊さん、どうしたい?』『あ、大家さん、どうもこうもねえや』・・・」
1時間の講演のあとひとりの白面の青年が手を挙げて、「私、いま先生のお話にありました阪大医学部のものですが・・・」と名乗られた。
ウチダはそのままドブを這って逃げようかと思った。
まことに忘れがたい出会いである。
その青年医師はいまや「武闘系街レヴィ派」(三人もいるんだよん)の新星として、また「合気道会のホームドクター」として人々に重用(重宝)されているのである。

芦屋川カレッジというところから講演を頼まれていた。
頼まれたのは去年の秋であるから、「芦屋でやるのか、ふーん」と思っていたが、引越してきたら、講演会場の芦屋市民センターは新居の隣の建物であった。(わが家から徒歩30秒)
職住近接というのはまことに楽ちんである。(石川先生のように「車中...の人となる」という時間がないのがあるいは私の語ることにいまいち「深み」が不足していることの大きな理由かもしれないが)
『身体感受性とコミュニケーション』というお題でお話をさせていただく。
企画したのは秋山さんというたいへんに手際のよい女性である。
私のところに仕事の話を持ち込む女性たちを総合すると、全体に「めっぽう話の早い女性」が多い。
私はほとんど病的な「イラチ」であるが、そのせっかちウチダをして「話が早いなあ・・・」と感服させるのであるから、彼女たちの話の早さは尋常ではない。
ウチダは「話の早い人」が好きである。
「話の早い人」というのは総じて自説に固執しない。
相手の出方を見て、ただちに作戦を変更する。
臨機応変である。
要するに「コミュニケーション感度がいい」「スキャンする力が高い」ということである。
そういう人たちと仕事をすると、仕事そのものがどんなものであっても、仕事までの「やりとり」がテンポがよいのですでに愉快である。
この一年半ほど、いろいろな人と仕事をしてきたけれど、総じて女性の方が「臨機応変」力が高いというのがウチダの体験的データである。
それは言い換えると、「当初予定していた企画が、計画のままタイムスケジュール通りに達成される」ということよりも、「当初予定していた企画とは、なんだかずいぶん違うものが出てきちゃったけど、ま、いっか。これも、面白そうだし」とような態度でかの女性たちがビジネスに取り組まれているからではないかと私は思う。

講演のときに「差し入れ」がある。
東灘区の接骨医の方からである。(ご本人は診療があるので、残念ながらお見えになれなかった)
添えられた手紙を読むと、私の『寝ながら・・・』を「恩師」から薦められて読み始めたら「虜になってしまい」、私の本を買い揃えて、「必要と思われる患者さん」に「配っている」という何とも奇特な方である。
この短いテクストのうちには、不思議なことがいろいろ書いてあるが、もっとも不思議なのは、いったい、どのような基準でウチダ本を投与する患者を選択しており、またいかなる治療効果を期待されて、そのような贈与行動をこの方は取られているのか、ということである。
なにしろ「接骨」である。
私の本を読むと、関節の痛みが寛解するとか、骨の付きがよくなるとかいうことがあるのであろうか。
そういうことをも含めて一度会ってお話がしたい方である。
この方の診療所名は「三軸自在研究所」というのである。
車で国道二号線を通る方なら、岡本の「いのしし高原ラーメン」の西側にこの看板を見た記憶があるであろう。
「三軸自在」とは何であるか?
私は久しくそれが疑問であった。
それが氷解する日も近い。(氷解したらご報告しますね)

ヤマハVINOが届いたのでさっそく乗ってみる。
たいへん快適である。
まだバイクの癖が抜けないので、坂道にかかったときにシフトダウンするつもりで左手のブレーキを思い切り引いてから、がごんと左足で床を踏みしめて、「ああああシフトレバーがない」と絶叫いたりしているが、それもおいおい調整されてゆくであろう。
2ストなので、がんがん走る。2号線を走ったら、あっという間に60キロ。
なんだ、インプレッサより速いじゃないか。(というのも、私は楠町で「ねずみ取り」に引っかかって12000円取られて以来、つねに50キロ以下でしか走行しないからである)

そのVINOにうちまたがって組合主催の「学習会」へ。
先般、学院から03年度からの大幅賃金カットの通告があった。
人件費抑制が適切な経営判断の中で決定されるのであるなら、労働者である私は特段の不満はない。Yes,sirである。
「賃金の多寡よりまず雇用の確保」というのは、子どもにでも分かる算術だからである。
大学が潰れたのでは話にならない。
人件費を抑制して浮いた原資をアクティヴィティの高い教育研究部門や、ブランドイメージの向上の期待できるプロジェクトに重点的に集中投資するというのであれば、私は何の異論もない。
それこそ大学サバイバルの唯一の策だと私は思っている。だから、その方向でいろいろと具体案をご提言してきてもいるのである。
しかるに今般の人件費削減案からは、そのようなグランドデザインが「何一つ」透けて見えない。
人件費をカットして、それを「建物を手直して、あとは貯金する」のだそうである。
意味の分からない行動である。
いま大学は浮沈をかけた「危急存亡の秋」である。
2009年までが勝負どきなのである。
そのあいだに「何をするか」で生き残る大学と潰れる大学が選別される。
その時期に人件費を削減して、大学の教育研究の活動性を殺いで、何をするのか。
聞けば、中庭の歩道の修理と、(誰も住んでおらず、受験生はおろか在学生さえその存在を知らない)キャンパス奥にある陋屋の補修に投じるのだそうである。
いったい、理事会は何を考えているのであろうか。
学習会では、かなり激しい意見が出された。(と他人ごとみたいに書いてはフェアではないな。私が申し上げたのである。)
全学が一丸となって危機に対処すべき時に、財務内容についての情報開示を怠り、大学再建のグランドデザインを示さず、一方的に賃金カットを通告しても、それを全教職員が粛々と受け容れると学院執行部は予想していたのであろうか。
そのような楽観的な労使関係への見通しは、いったい、どのようなデータに基づいて、どのような経営戦略に即して可能となったなのであろう?
私にはうまく想像ができない。
制度改革に本気で乗り出す気なら、「制度改革の喫緊であること」を年来主張してきた教職員たちとの意見交換と合意形成の場を確保し、そこをケルンとして、全学的な改革機運を組織化するのが「ローコスト・ハイパフォーマンス」の定法であろう。
たしかに意見のすりあわせや合意形成を抜きにして、一方的に上意下達で改革が成し遂げられるものであるなら、それがいちばんコストが安い。
しかし、「上からの決定」はそれに対する「下からの信認」に担保されなければ、何の実効性もない。
だから、上意下達システムを効率的に運用したい場合は、まず合法的なしかたで「全権委任」的な信認をとりつけておかなければならない。
私たちはたしかに大学が危機的な状況にあるという「認識」は(一般論としては)共有したけれど、それに対する施策の起案実行について、理事会に「一任」した覚えはない。
むしろ、11月の全学研修会で確認されたのは、「ひとつひとつ合意形成を積み重ねながら大胆な改革を実行する」という手続き上のルールではなかっただろうか。
執行部が改革を急ぐ気持ちを私は理解できる。
むしろ「遅きに失している」と思っている。
しかし、それにもかかわらず、ほんとうに急ぐなら、なぜ「全学的な合意が得られるはずのないやり方」を選択するのだろうか?
つねづね申し上げていることだが、「話を早くする」ことと、「話を簡単にする」ことは別の水準に属することである。
経験的に言って、話を簡単にすることによっては、必ずしも話は早くならない。
むしろ、話を複雑にしたままにすることによって、話が早くなるということが多々ある。
というか、ほとんどの場合がそうだと断言してもいいくらいである。
紛糾する会議をすぐ終わらせようと思ったら、「採決する」よりも、「継続審議」を宣言する方がよい。
意見の一致を見ない答申案を起案するときは「両論併記」するのがよい。
それでは何も決まらないではないか、といきりたつ方は「時間」というファクターを勘定に入れるのを忘れている。
ほとんどの「対案」や「両論」は一定時間が経過すると、いずれが「適切」であるかおのずから「歴史の審級」において明らかになる。(この点においてウチダは頑迷なまでにマルクス主義者である)
場合によっては会議の翌日に列席者の全員が「あ、あっちが正しかったんだ」ということに気づくということが起こる。
翌日まで24時間徹夜で議論していてもおそらく達しえない合意が「とりあえず両論併記して一晩寝かせておいた」だけで自然形成されちゃった、ということがありうるのである。
だから、ほんとうに話を早くしたいときには、「いくつかのオプションを並行して『生かして』おきながら、どんどんことを進める」という戦術がしばしば奏功するのである。
私はこれが「民主主義」の起源にある人間理解であると考えている。(その意味でウチダは頑迷なまでに民主主義者である。)
「いくつかのオプションを並行して生かしながら、ことを先へ進める」ために「合意形成システム」がある。
その意味で、「合意」というのは「メタ決定」ということができる。
「ある決定について合意する」ことは「合意することについて合意した」ことを権源としている。
私たちは「合意することについて合意した」。
私は11月の研修会の意義をそう理解している。
「具体的ないくつかの案件について合意した」わけではない。
ことの順逆を狂わせてはいけない。