2月24日

2003-02-24 lundi

下川正謡会の新年会がよほど心理的プレッシャーになっていたのか、終わったとたんにタガが緩んで、10時間爆睡してしまった。ふとんが床に落ちていたので、よほど寝ながら暴れたのであろう。
ご存知のとおり、寝相が悪いというのは健康によろしいことである。
寝ながら身体の歪みが自律的に補正されているからである。
寝返りが打てないと人間は「床ずれ」というものになる。
どうして、静止している人間の身体に穴があくのか、常人には理解の難しいところであろうが、それは身体が硬直して、微細な震動(呼吸や循環にともなう)だけしか運動がないということになると、いわば「大根が大根おろしの上でこきざみに震えている」状態になるわけだからなのである。
シーツの繊維の肌理と人間の皮膚が一日中「すりすりすりすり」とこすれ合うのである。
想像するだに恐ろしいことであるが、これによってあっという間に皮膚は破れ、骨まで見える穴があき、患部が壊死してしまうのである。
それを防ぐために、人間はごろごろと寝返りを打つ。
よほど昨夜はリラックスして眠れたらしく、豪快にふとんがベッドから転げ落ちており、マクラはあらぬ彼方に消え、パジャマは頭の上にまでまくり上がっていた。
目が醒めると、頭がすっきり。
そんなにプレッシャーがあるなら、能楽なんて止めたらいいじゃないか、という賢しらなことを言う人があるやもしれない。
まことに人間心理を知らぬ妄言と言わざるを得ない。
プレッシャーが定期的にあるからこそ、それがクリアーされるたびに、このような豪快な「レイド・バック」が訪れるのである。

昨日の新聞に「パワハラ」という新語が紹介されていた。
「パワハラ」とは何であるか。
朝日新聞家庭欄によれば、「職務権限を背景にした職場のいやがらせ」を「パワーハラスメント」と呼ぶことを提唱しているコンサルタント会社や心理学者などがいるそうである。
どういう事例を「パワハラ」とよぶかというと、

「『報告が気に入らない』と、同僚たちの前で怒鳴られたり、無視されたりといった嫌がらせを受け続けている」
「すぐ目の前の席の上司が、ちょっとした指示でも、すべてメールで出してくる。口もききたくない、ということか・・・ひどい」
「仕事が終わって帰ろうとすると、『上司が残っているのにもう帰るのか』と叱られ、飲み会では『何で先に帰るんだ』と怒鳴られる」
「仕事のずさんさが目に余り、所長に指摘したところ、『新参者が生意気だ』と怒られ、雑用ばかりさせられたり、達成できないような仕事量を振られたり」
「リストラのあおりで、仕事量が五年で二、三倍に増えた。それを達成できないからと無能よばわりされ続けている」

列挙されていたのは以上のような事例である。
これが「パワハラ」だそうである。
私はこの記事を読んで、しばらく虚空に目を泳がせた。
「・・・・それが、何か問題でも?」
誰でも分かることだが、このような症候発生には「前段」がある。
管理能力のない上司のもとで働くというのは、たしかにストレスフルなことであろう。
私にもそれは理解できる。
では、転職されればよいではないか。
職業選択の自由は憲法第22条の規定する国民の基本的権利である。
誰も転職を止めることはできない。
なぜ、しないのか?
転職したいが、転職先がない?
ふーむ、なるほど。
というのは、ご本人には他社からヘッドハンティングがかかるような際だった技能も人脈もお持ちでない、ということになる。
だが、それは上司の責任だろうか?
転職したいが、家のローンの払いが残っていて、辞められないという方がいる。
しかし、「際だった能力のないサラリーマンは、イジメで部下を鬱病にするような管理能力の欠如したバカ上司のもとで働くことになる可能性が非常に高い」ということは誰でも知っている事実である。
どうして、そのような否定的状況が「自分の身にだけは決して起こらない」というような無根拠な楽観を抱くことが出来たのであろう?
いずれもご判断されたのはご本人であり、上司ではない。
そもそも、「管理能力のないバカ」が上司である会社とは、原理的には「管理能力のないバカ経営者」が経営している会社である。(「管理能力のある経営者」は「管理能力のないバカ」を重用しない)
通常、バカ経営者が経営している会社は、「バカ・オーラ」というものをはげしく発生しているので、観察力のある人は遠方からそれと察して回避行動をとることができる。
生存戦略上不可欠であるところの、このような「バカ回避行動」を取らなかった個体が、「バカの毒」に当たって苦しむのは、論理的必然のなせるわざであって、これは誰にも救うことができない。
「バカ回避行動」というのは、単純なことだ。

  • 自分自身の能力適性について、シビアな自己評価を行い、欠点の補正に子ども時代から取り組むこと
  • 快適な職場環境を確保するために必要な人間的資質(インテリジェンス、礼節、コミュニケーション能力、諧謔精神、批評性、フェアネスなど)の涵養に子ども時代から取り組むこと
  • 「バカ・オーラ」を感知できる身体感受性を高める訓練に子ども時代から取り組むこと

以上である。
新聞記事を徴する限り、「パワハラ」被害者というのは、このような「幼児期より取り組む」べき人間的課題をネグレクトしてきた方々ではないかという気がする。
お気の毒であるとは思うが、そうだとすれば、「身から出た錆」である。
むしろ問題は、このような「自業自得」的症候について、何らかの社会的責任を探し出して、本人たちを免罪しようとする論法にある。
私が困惑するのは、このような論法を採用すれば、あらゆる社会的不満は「ハラスメント」というカテゴリーに繰り込むことが可能となるからである。

同僚がいつも私より「高くセンスのよい服」を着ていて、私は被差別感を味わっているというのは「ファッション・ハラスメント」と呼ばれるであろう。
同級生がいつも私よりよい成績を取るので、私は屈辱感を味わっているというのは「スクール・ハラスメント」と呼ばれるであろう。
競争相手がいつも私よりよいパフォーマンスをするので、私は自己嫌悪に陥っているというのは「スポーツ・ハラスメント」と呼ばれるであろう。
新聞をひらくと、いつもいらいらする記事ばかり読まされるので、私は食欲不振であるというのは「メディア・ハラスメント」と呼ばれるであろう。
何かというとすぐにみんなが「ハラスメント、ハラスメント」と言い立てるので、うんざりしてきて不眠や頭痛に苦しんでいる(私のようなケースは)「ハラ・ハラ」と呼ばれるであろう。

結果的には、社会的能力が低く、非寛容で、狭量で、自己中心的な人間であればあるほど「ハラスメント」被害を受けやすいということになる。
そして、そのような被害者こそ優先的に救済されるべきである、ということになると、そのような社会では「社会的能力が高く、寛容で、器量が大きく、他者の利害に配慮する人間」であろうとする動機づけが損なわれることになる。
私は社会性の低さゆえに、心に傷を負った人間を救済することに反対しているのではない。そうではなくて、社会性の不足ゆえに心に傷を負った人間を救済するために、「人間は社会性を高めてゆくべきだ」という当為を犠牲にすることに反対しているのである。(わかりにくくて、すまない)

そう言えば中島らもがマリファナで捕まった話について何もコメントしてなかった。
別に私がコメントしなければならぬ義理もないのであるが、仮にも私にとっては「アイドル」の一人であるから、らもさんのために一言の「弁明」をせねば・・・と思ったのであるが、うまいことばが思いつかない。
私は軽度のアル中であり、軽度のニコチン中毒であり、重度の活字中毒であり、総じて「アディクト」について寛容さを求める立場にある。
あらゆるアディクトは個人的な選択の結果である。
自分の一部を損なうことによって、自分の一部を救うということはたしかにある。
それを責めてもしかたがない。だって、それが「ひどい話」だということは本人がいちばんよく知っているんだから。
人は自分のサイズに合わせて固有の不幸のかたちを選ぶ。
どうして、ある不幸のかたちを選び、違うかたちを選ばなかったのか、それは誰にも分からない。
たぶん、本人にも説明できない。
こういう「本人にも説明できない問題」については、人間の「弱さ」と「愚かさ」のあり方について熟知している小田嶋隆にラストワードを委ねたいと思う。
この問題についての、小田嶋隆のコメントの本旨は「私にはわからない。たぶん本人にだってわからないだろう」という一行に尽くされる。
「わからない」ということばをどういう文脈の、どのタイミングで切り出すか、ということに知的な有り金を賭けられる人を「知識人」と呼ぶのだと私は思う。
では、小田嶋先生お願いします。

2月9日

中島らも氏の逮捕(マリファナ&マジックマッシュルーム所持)について、元アル中のモノ書きとして、コメントしておくべきかもしれない。
別に放っておいてもかまわない......というよりも、依存症患者に対する適切な態度は、放置黙殺無視忘却以外に無いのだが、それはそれとして、何か一言あってしかるべきだと考えている人もあるでしょうから。

どんなコメントをするにしても、とにかく「生みの苦しみ」だの「創作のヒント」だのといった決まり文句は、この際、言いっこなし(実際、ワイドショーのコメンテーター諸氏は、「芸術家にはやはりそういう誘惑が」式のステレオタイプのもの言いをしていたし、タブロイド紙のまとめ方も同様だった)だと思う。
クスリはクスリ。酒は酒だ。
アーティストが吸ってもマリファナはマリファナだし、スーパーモデルの鼻がスニッフしてもシャブはシャブだ。
薬物依存やアルコールがらみの事件において、メディアが作家や文化人を特別扱いにする態度は、犯罪的ですらある。いい大人がジャンキーを甘やかしてはいけない。ずのぼせた高校生がボードレールに憧れるのとはわけが違うのだ。
作家の不品行を英雄視する類の幼稚なデカダンス趣味が、マスコミ関係者の精神の内奥に残存している事情は、彼らの多くが挫折した芸術青年である以上、いかんともしがたいのかもしれない。が、芸術家の懶惰や小説家の頽廃を美への耽溺や魂の純粋さに短絡するものの見方は、単にうすっぺらだというだけではなくて、現実に多くの若い愚かな魂を破滅に追いやっている。
破滅......という、この言葉の響きうっとりしている君。君に言っているのだよ、私は。
いいだろう。
破滅願望の持ち主である人間が、おのれの破滅を美化することは、ほかならぬ本人の破滅に免じて許してやることにする。
でも、メディアが破滅を美化してはいけない。
もってのほかだ。
とんでもない勘違いである。

「生みの苦しみ」についても一言だけ言っておく。
何かを作る時に苦しみを感じているような人間は、創作には向いていない。
というよりも、苦しんで作っているようなヤツは、要するに才能が無いのだからして、早々に創作から足を洗った方が良いのである。

中島氏にとって、創作は喜びであり、かつ救いであったはずだ。
彼の心に苦しみがあったのだとしたら、それは創作活動とは無縁の、おそらくは、酒や薬物にまつわるごたごたから生まれ出たものなのだと思う。
結局、薬物は苦しみからの出口ではなくて、入り口だったということだ。

では、なぜ中島らもは、あえて苦しみの入り口を求めたのかって?
私にはわからない。
たぶん、本人にだってわからないだろう。
酒にしてもマリファナにしても、それが気晴らしであったごく初期の段階を過ぎれば、同じものになるのだ。快楽物質は、ある段階を経過すると苦悩そのものになる。そういうことだ。
いや、そもそも快楽それ自体が、苦痛の先駆症状に過ぎないのかもしれない。
って、言い過ぎか。
言い過ぎだな。
訂正する。
快楽は苦痛の副作用である。
......というぐらいでどうだろう?
変態?
だな。
撤回しよう。