2月22日

2003-02-22 samedi

先夜の北野のフレンチ宴会のときに、三宮駅からぷらぷら坂を上がる道すがら、葉柳先生がホームページ上で「論文職人」を自称したところ、いろいろご批判を頂いたという話をうかがった。
私は無精にもその日記を読んでいなかったので、「えー、それどういう話なのー」と手抜きの質問をしたのであるが、なかなか一言では言えないような複雑な話であるようなので、家に戻ってからさっそく葉柳先生のホームページを熟読させて頂いた。
まず葉柳先生の日記を拝見してみよう。

論文職人としてのワタシ
03/02/12(水) 23:04:14

鳴門教育大のロック少年増田さんが HP に次のように書いている。

修論提出前の学生たちの推敲作業につきあって思うのだが、自分が人様に堂々と教育することができる「普遍的な」技能や知識というのは、唯一「学術論文の作法」だけであるようだ。その他、ロック史も分析美学もメディア論も所詮は「好きな人にとっては役に立つかもしれない、興味ない人にとってはどうでもよい」程度のトリヴィアルな知識に過ぎない。オレの大学教師としての存在意義なんてそんなもんだ...

私にとっても事情は同じである。私の主たる研究対象であるマックス・フリッシュなんて名前を知っている日本人はごくごく希であるし、今翻訳をやっているフリードリヒ・デュレンマットだって日本では全く無名といっても過言ではない。(ただし西欧、少なくともドイツ語圏では二人とも、日本における「龍と春樹」と同じくらいの知名度はある)。ナラトロジー研究にしても、興味のない人にとっては、論理の遊びに過ぎないかもしれないし、それどころか場合によっては、寝た子を起こす言説を生産する迷惑行為ですらあるかもしれない。

しかし、自分で言うのも何だが、私の論文指導は結構いい線をいっている。(これは必ずしも論文を書くのがうまいということではないが)。私がチョイチョイと論文のバランスを調整しただけで、それまで何を言いたいのかよくわからなかった学生諸君の論文が理路整然としたものに変容する。
これは別に難しい技術ではない。まず第一に、長きに亘った大学院生活の間、生活費を稼ぐために小論文関係のバイトをせっせとやったことで採点者の視点、つまり、どう書けば点数を稼げるのか、どんな書き方をすればボツにされるのかを見抜く眼差しが身に付いた。受験生の 800 字小論文を 2 分で斜め読みして、1 分で添削方針を決め、5 分で赤を入れコメントを書き込む、という技術をマスターしてしまったのだ。(時給に換算して約 5000 円の技術である)
(信じてもらえないだろうが、数年に及ぶ小論文指導の間、私の添削に対して苦情が来たことは一度もなかった。たいていの同僚は、「字が乱雑すぎる」とか「独りよがりな添削である」とか「受験生の心を傷つけるようなコメントはいけない」といった(いかにも私にも当てはまりそうな)クレームを付けられて、仕事を減らされたり、ひどい場合にはリストラされたりした)
第二に、人文系の大学院生、とりわけアメリカと中国以外の国のことをやっている院生の就職事情が急速に悪化したために、生き残るためには「レフェリー付きの学会誌に投稿しても決して落とされない論文作法」を身につける必要があった。私が学生たちに、「論文の脇を固めろ」とか「ディフェンシヴに書け」としつこく言っているのはこのときの経験に基づいている。
第三に、二回目の修論をドイツ語で書いたことが実に役に立った。正確に言えば、修士の学生にはドイツ語と日本語でできる限り同じ内容の論文を提出することが求められた。これを日本語換算で 80000 字くらいやると、どこか不明瞭なところのある日本語は決して正確には翻訳できない、ということが身にしみてわかってくる。そうすれば否応なく、普段からわかりやすい日本語を書くよう意識するようになる。と同時に、他人の書いた文章の不明瞭な点や、不正確な点が、「あ、ここは外国語に翻訳不可能だ!」という心の声とともに瞬時に浮かび上がってくるようになるのだ。
こうして私は論文職人になった。
私はこの「論文職人」という言葉にいささかなりともネガティヴなニュアンスを込めてはいない。先日我が家の電気配線を手直ししてくれた電気工事の技師の方といい、それにつづいてクロスの補修をしてくれた内装屋さんといい、「私がいくら時間をかけてもここまできれいには仕上がらない」と思わせる技術を持っている職人さんの仕事を眺めているのは実に気持ちがいい。話をしてみても皆さらに技量を磨くことになみなみならぬ関心を持っていて、こちらまで「がんばるぞ」という気持ちにさせられる。

増田さんは、「学術論文」に自らの能力を限定しているが、私たちの職人芸は、就職のためのエントリーシートの書き方とか、プレゼンテーション原稿の書き方とかにも応用できる。つまり社会で広く役立つ技術なのである。
今日、ゼミの三年生たち相手に「履歴書の書き方講座」をやったのもこの芸を少しは世のために役立てようと思ってのことである。
おそらく、こうした意味での「文章作法」は、大学という教育機関がその「商品」たる学生たちに身に付けさせておくべき「品質」であり、卒業証書はその「保証書」ととして授与すべきものであろう。
別の言い方をすれば、それに目を通した瞬間、私の右手が赤ボールペンを求めて動き始めるような卒論を大量に「生産」しているようなゼミ(そんなゼミはないと信じたいが)は、<ネグレクトという教育犯罪>を犯していることになるのだ。(この比喩いけば、セクハラは性的虐待だし、アカハラは暴力的虐待ということになろう。あ、そうか、学生を育てるのって、幼児を育てるのと同じなんだ。)

読者のみなさん教えてください
03/02/14(金) 02:13:54

昨日の「論文職人」についての日記に対して、三人の読者の方から苦言をいただいた。

一つは、「本音にしろ韜晦にしろ、<自分にとっておもしろければそれでいい>といったスタンスや、<職人的技芸に満足している>のは研究者の甘えであって、もっと<確信的な挑発性・攻撃性を研究者にも期待したい>」というものであった。

あとの二つはほとんど同じ内容で、「学問というのは真理の探究であるから、それを職人仕事などと一緒にしてしまうのはいかがなものか」とまとめることができる。
立ち止まって考えるに価するのは無論、前者の方だ。

現時点での私のスタンスを、前者のメールへの返答として次のように書いた。

[......]とすると、研究者としての立場なのだが、残念ながら、増田さんの「好きな人にとっては役に立つかもしれない、興味ない人にとってはどうでもよい」という言葉と僕のスタンスはかなり近い。だって、「ホンウスバカゲロウの産卵方法の地域的偏差確認のための標本分類」とか、「マルクスとヴェーバーの著作の物語論的構造の比較」とか、「キルケゴールとカミュにおける<反抗>概念の神学論的差異の文献学的例証」といった研究があり、やっている当人は最高の知的興奮を感じており、かつ、それが学問の世界の問いの布置をほんのわずかだけど決定的に変えるということを確信しているとしても、さしあたりそういった研究に興味のない人たちにとっては単に重箱の隅をつついているだけの退屈なものにすぎないだろう。万人向けのエンタティメントじゃないんだから。

前にも書いたと思うが、研究者としての自分のスタンスを自分の語彙で言えば:

「まずもって自分がアカデミック・ハイを経験できること、それが他人にとってもおもしろいことであればもうけものだ」

同じことを若き上野は:
「私は自分がスッキリするためだけに学問をしている」
と言った。

そういう契機を持たない研究ならやらない方がましだ。

[......]
そして、武道にしろ詩にしろ、ある種の型を習得することによって初めて、身体ないし言語表現の創造的自由を実現できる。そのためには徹底的にディフェンスを学ぶ必要がある。学術論文という型もそういうものだと思う。世界中で発表される学術論文の 99.5% はそういうものだ。だから、一見したところ地味で退屈だ。その 99.5% のなかの 0.1% くらいが、あるとき何らかの学問的コンテクストに置き換えられたとき、突然、異常なまでのインパクトを発揮するするんだと思う。[......]
結論からいうと、一見、地味で手堅く見える型の内部でみずからの可能性をぎりぎりまで探求するという研究の内部からしか、本当の挑発性とか攻撃性は出てこないと思う。
そういった意味での「挑発性や攻撃性」は、専門的なトレーニングを積んだ人間にしか認識することができない。一般人が飛び込み競技を見ても得点の違いがどうやって出てくるのかよくわからないのと同じだ。
だから、「核心的な挑発性・攻撃性」を圧倒的大多数の研究者に望んでもそれはない物ねだりだと思う。だいたい「挑発性」や「攻撃性」ってそれがあからさまなものであればあるほど「啓蒙性」とほとんど同義だろう。ある学問分野の広告塔として、そういった役回りを引き受ける人は必要かもしれないけれど、山口昌男にしろ、栗本慎一郎にしろ、上野千鶴子にしろ、池内紀にしろ、蓮實重彦にしろ、彼らの仕事の中で 10 年後に残るのは、広告塔になる前に書いていた、「地味で目立たないが手堅い論文」ばかりなんじゃないだろうか。(立花隆のようなアカデミック・ジャーナリストが挑発や攻撃や啓蒙を売りにしてくれる分には何の異論もないが・・・)
[......]
教育をきちんとやって、(ジャーナリスティック and/or 啓蒙的な意味ではなく)学術的な意味できちんと手続きを踏んだ研究をやっている限りにおいて、何をやろうとそれは自由でしょう、と正直言って思う。ウスバカゲロウについてやろうが、革命の思想をおとぎ話として読み替えようが、神への反抗なのか超越への反抗なのかそれだけを問題にしようが、「反証可能性」さえ確保していれば、別に非難される謂われはない。
そうでないと、「役に立つ研究をやりなさい」という文部省や(一部の)企業経営者の言説と、「もっと挑発性や攻撃性を」という言説との間の差異も、メルクマールの違いだけで、発想の型それ自体は全く同じということになってしまうだろう。
こういう言い方って甘えなのか? 挑発性とか攻撃性とか、有用性とか実用性とかを前面に出して書く方が、圧倒的に知的負荷が小さいんだぜ。

飛び込みがマイナースポーツの地位に甘んじているのは、そのおもしろさを広く人々にアピールする努力を怠っているからだ、という批判が一定の妥当性を持っているのと同じように、ある学問が不人気だったりおもしろくないと見なされたりしていることの原因のかなりの部分は、その分野の研究者が、自分の感じているおもしろさを、他の人たちに伝える努力をしてこなかったことにある。私にだってそれくらいのことはわかっている。
しかし、単なるエンタティメントに堕すことなく、一定の水準の専門的知見を誰にもわかるように書くという技術は超高度なものであって、おそらく、長年にわたる地味で目立たない退屈な研究論文の積み重ねを土台に持つ必要がある。私自身の研究は、まだまだその土台のパーツをおおよそ作ったという段階であって、二三年の内に、(限られた専門的研究者以外には)超退屈な土台作り=博士論文執筆をやろうと計画しているに過ぎない。「挑発性や攻撃性」と研究としての水準を両立するのはまだまだ無理だ。

これって<甘え>なのだろうか。それが<甘え>だって言われたら、私の言う<二流の研究者>の大部分は、大甘ってことになってしまう。ああ、わからなくなってきた。

読者諸賢のご意見を請いたいと思います。

というのが葉柳先生の基幹的主張である。
私は葉柳先生の意見にほぼ100%賛成である。(「ほぼ」というのは、私が誤読している可能性が数%あるからだ。私はほとんどすべてのテクストについて組織的に誤読する人間である)
学術性を担保するものは何か、ということについては葉柳先生が書いているように、私もカール・ポパーの言う「反証可能性」ということに尽くされると思う。
「反証可能性」というのは、自分の学術的仮説の基礎になったデータを「追試可能」なものに限定することである。
例えば「神は存在する」というのは学術的仮説ではない。
それが「実証不能」だからではない。(「私は神の声を聞いた」という人は現にゴマンといる。)
そうではなくて、それが「反証不能」だからである。
だって、「世界のはじめ」や「宇宙の終わり」についての「追試可能」な実証的データなんか誰にも提出できないからである。
同じように「神は存在しない」というのも学術的仮説ではない。
これもまた「反証不能」だからである。(「お、そういうこと言うわけ、じゃ、神さんに今降りてきてもっておまえを稲妻で撃ち殺してもらうかんね。神さまー!」というような人間のジコチューな要請にほいほい答えてくださるような神さまはおられない)
『木曜スペシャル』や『TVタックル』で、早稲田の大槻教授が、ときどき「UFO」や「超能力」について、そんなものは「実証不能」であるから科学的ではないということを言っているが、これは大槻教授の「科学」の定義の方が間違っているのである。
UFOや超能力が学術的言明になじまないのは「実証不能」だからではなく、「反証不能」だからである。
反証不能なものは「学術的でない」というだけであって、そこからは神やUFOが「存在しない」という判断は演繹できない。
私自身は神やUFOや悪霊やエイリアンの存在を信じて疑わない人間の一人であるが、学術論文にはもちろんそういうことは書かない。
私が学術論文に書くとしたら、「神の存在を信じる」人の信仰形成に関与する社会的ファクターや、「神の存在を信じる」社会集団に固有の行動様式や思考傾向についてである。
そのような研究なら、神を信じる人間にも信じない人間にもひとしく「追試可能」である。
葉柳さんが「ディフェンス」ということばで言おうとしているのは、おそらくこの「追試可能のデータに学術的仮説の論拠を限定する節度」のことではないかと私は思う。

「ディフェンス」というのは、「コミュニケーションの可能性」を信じる人間しか試みないことである。
「節度」というのは、「他者」との対話の開かれを期待する人間にしか用のないものである。

だって、そうでしょ?
「反撃を予測しないディフェンス」や「配慮すべき他者を想定しない節度」などというものはありえないんだから。
「学術性」というのは、端的に言えば「対話可能性」のことであり、それ以外の何ものでもない。
喩えて言えば、あるピッチャーが「すごい球」を投げるということを示すためには、マウンドからキャッチャーが捕球できる範囲に球を投げ込む、ということが必要である。
「おれはすごい球を投げるぜ」と言って、センター後方の観客席に170キロのストレートを投げ込んで客の脳天を砕いても、あまり評価されない。(業務上過失致死に問われるだけである)
バッターボックスにバッターが立っているときに、キャッチャーが捕球できる範囲に投げ込まないと、それが「どれくらいすごい」球なのかは誰にも分からない。
それと同じである。
学術研究というのは、それを査定する「共通の度量衡」を持っている人々とのコミュニケーションの中でしか成り立たない。
葉柳さんが言っている「論文職人」というのは、そのような「共通の度量衡」をきちんと見きわめることのたいせつさを強調したことばだろうと私は理解している。
その研究にどういう批評性や創造性を載せてゆくのか、というのは「その次」の問題である。
葉柳さんは「what」ではなく「how」がたいせつだと書いているけれど、それは私ふうに言い換えれば、「何を」書くかの前にまず「誰に向かって」、「誰のために」書くのかを考えることがたいせつだ、ということである。
そのような「コミュニケーションの限定」を経由してしか、「コミュニケーションの解錠」はありえないだろうと私は思う。
攻撃性や挑発性というものが成り立つためには、それらの言説を「攻撃的」であったり「挑発的」であったりすると判定する「共通の判断枠組み」を送り手と受け手を共有していることが前提となる。
しつこく野球の比喩を使えば、「挑発的な」ボールというのはキャッチャーミットに収まるようにコントロールされた、えぐるような内角のボールのことであって、キャッチャーミットの5m横を通るようなボールのことではない。

武道に限らず、あらゆる芸道において、修業は必ず「守破離」という段階を追う。
楷書が書けない人間には草書は書けない。
私たちが大学で教えているのは「守」の芸である。
誤解する人はいないと思うけれど、それは既存の知的秩序を守るためではない。
「守」の芸ができないものは「破」や「離」をなしえないからなのである。
定型を学ぶことには一つしか目的がない。それは定型を超えることである。