旧友の浜田雄治くんが香港からやってくるというので、長駆、新宿まででかける。
浜田くんと会うのは10年ぶりくらいである。
30代で西武百貨店の事業本部長になった辣腕の浜田くんは、バブルの徒花、香港西武の幕引き役を任じられ以後香港に居着いて、City Super という店舗をばんばん展開している国際派ビジネスマンである。
篤学の西洋古典学徒であり、少年少女世界文学全集と「ひょっこりひょうたん島」をこよなく愛する温顔の少年が、生き馬の目を抜く香港華僑の上前をはねる悪逆無道のアキンドになるとは誰が予想したであろう。
人というのは分からぬものである。
ハマダくんを囲んでの時ならぬ新年会は伊藤 "総務部長" の仕切りで、イワムロ "監査役室長"、モンタ "海外事業部長"、ツキウダ "営業部長"、ミズデ "渡世人" など旧日本進学教室の猛者たちが集まった。みなさまとも久保山くんの葬儀以来七年ぶりである。
ほんとうは澤田 "工場長" も来るはずで、彼からISO9000の話をレクチャーしてもらうつもりであったが、澤田くんだけ急用で欠席。
それにしても、みなさん立派に出世された。あのバイト先にはまことに優秀な方々がビンボー学生として蟠踞しておられたのである。
そういえば野崎ジロー先生も、松本 "隠士" 順一くんも、先日研究室に来られたO井Y美子さんもみな日進のバイト仲間であった。
わいわいと歓談したのち、「明日もオツトメ」のみなさんを送ってから、新宿の「イーグル」で伊藤くんとハマダくんと旧45L III 9Dのミニクラス会。
ハマダくんは(故・新井啓右くんと竹信悦夫くんとともに)私が知るうちで、もっとも「地頭」(@ハヤナギ)のよい友人の一人である。
頭の良すぎる人の通弊として、この方たちは、自分で話を始めておいて、話の途中で自分の話に飽きてしまう。そこで、自分の話に自分で飽きないように、「自己突っ込み」というものを頻用するのである。そのうちもとの話よりも「突っ込み」の方が多くなって、何の話をしているのか誰にも分からなくなってしまうというのが彼らの言説のはらむ根本的難点なのである。
昨日は10年ぶりということもあって、ハマダ君のほとんど自虐的な「自己突っ込み」に合いの手を入れるタイミングを思い出せない。
話がさっぱり終わらないので、私は学士会館に宿をとっていたのであるが、そのままハマダ君の二俣川のご自宅に泊めてもらうことになる。タクシーの中でもしゃべり続け、ご自宅の二階で布団に入ってからも話し続け、払暁にようやく「あ、それロン」というラストワードが出て、無事に眠りに就く。
のそのそ起きだして、30年ぶりにハマダくんのご母堂にご挨拶して、朝御飯をごちそうになる。
「あら、ウチダくん、おひさしぶり。お元気?」とご母堂はまるで三日前にも泊まった息子の悪友に向かうようなご挨拶をなされる。
「やや、どうも、とんでもない時間にお邪魔しまして・・」とこちらも学生時代のような片づかない挨拶を返す。
ひとしきり歓談してから二俣川の駅まで北風に吹かれ、富士山を眺めつつハマダ君に送って貰う。話したいことはまだまだあるし、ハマダ君の切れ味のよい批評を聞きたい個人的な問いもたくさんある。別れが惜しい。
友だちというのはほんとうによいものである。
有朋自遠方来、不亦楽乎。
新幹線車中爆睡の人となり、芦屋に帰る。
顔を洗って、ただちに教授会とセクハラ研修会。
セクハラというのはいったい何なのであろうという根源的問いにとらわれる。
前にも書いたが、harasser の原義は猟犬が獲物を追い詰めて、もう逃げ切れないまで消耗させることである。
今日の講師である雪田弁護士の話でも、セクハラ被害者に共通するのは、「自分がどういう状況に追い詰められているのか、それを判断する力そのものが失われてしまうこと」だそうである。
なるほど。原義通りである。
「攻撃されている」とか「侮蔑されている」とか「陥れられている」とか、自分の置かれている局面に「名前」がつけられればなんとか対処のしようもある。
しかし「何が起きているのか分からない」とき、人間は打つ手を思いつかない。
そしてハラスメントというのはまさに「自分の身に何が起こっているのか、分からなくなってしまうような状況に至らしめること」なのである。
セクハラ被害者というのは「自分がセクハラ被害者であるかどうかよく分からない」という混乱の中に投げ込まれるというかたちで損なわれるわけである。
つまり、セクハラはふつうの犯罪よりも次数が一つ高い犯罪なのである。
それを「ふつうの犯罪」に同定しようとすると無理がくる。
セクハラ被害というのは、「あれはセクハラだったんだ」というかたちで事後的に第三者に「承認」されてはじめて「被害」として認知されるという構造をもっている。
だから「リアルタイムであなたは被害を受けていると感じていましたか?」という司法の実定的な問いの前に被害者が絶句するということが起こる。
それが「事件」であるのかないのかが事後的にしか判定できないこと、ある「文脈」の中におさまらない限り事件化しないこと、それがセクハラをむずかしいものにしている。
セクハラは「文脈依存型の犯罪」である。
文の最後に来る単語が何であるかによって、「そこで起きた出来事」の意味全体がまるごと読み替えられてしまうからである。
例えば、権力関係の中で、同意があったかどうか判然としない性的関係が持たれた場合でも、当事者たちがそのあと結婚したりしたすると、これをセクハラであると立証することはむずかしい。(「文」を途中で切れば、立派なセクハラ事件だ)
ふつう、「事件」というのは「もう起こってしまっている」。だから、殺人事件はつねに「死体の発見」から始まる。ところが、セクハラ事件の多くは、「それが『セクハラ事件』であったかどうかは、文の終わりが来るまで分からない」のである。
文脈依存的な出来事の意味を実定的に語るのはむずかしい。
『アリー・マクビール』というTVシリーズは「30代の女性の生き方」についてのドラマであるというふうに一般には解釈されているが、私はむしろ毎回の裁判のテーマがいつも気になる。
『アリー』のフィッシュ&ケイジ法律事務所が扱っている事件は「文脈依存的」事件ばかりだからである。
弁護士たちは毎回、その事件をそれぞれの「物語」の中に繰り込むために必死の弁論を展開する。そして、「より大きな物語」、よりカバリッジの広い物語の中に事件を繰り込むことに成功した方が勝ちを収める。
このTVシリーズではアリーの勝率がよい。
それは彼女が最終的に依拠するのが「真実の愛の物語」だからである。(陪審たちはこの物語が好きだ)
もう一人、法解釈はデタラメのリチャード・フィッシュ君も勝率はダントツである。彼が依拠するのは「金の物語」である(陪審たちはこの物語も好きだ)
「愛と金」
なるほど。
私が知る限りのセクハラ事件のすべてに共通するのは、男の側に「愛がない」ことと「金にシワイ」ことである。
(2003-02-20 00:00)