2月11日

2003-02-11 mardi

終日学生院生の書いた論文を読む。
学部の卒論は優秀論文審査用、修論は修論の口頭試問用。修論は四本もある。(面接は半日がかりである)
いずれもそれなりのクオリティのものなのではあるが、総じて「話がくどい」(人のことはあまり言えないが)。
「話がくどい」のは、ある意味ではしかたがないことだ。
論理の階梯を上がるときというのは、山に登る場合と同じく、螺旋状にくるくる回ってゆき、だんだん高度を稼ぐものなのであるから。
だから、「さっき見たような景色」「さっき読んだような論点」が繰り返し出てくる。螺旋状にくるくる上がるのだから、繰り返しは避けがたい。
しかし、それは論文を「書いているとき」のはなしであって、それを次に「推敲」するときには、そのあたりの反復描写はばっさり削除しなければならない。
論文は一度で書くものではない。
一度書いたものを、(じっさいに自分がたどったコースとは違う)直線コースに書き換えて、それでようやく「初稿」なのである。
論文の目的は、もとから頂上まで上がり、「そこからはこんなものが見えました」というレポートを行うことなのであるから、最短距離で登ってみせるのが「読者へのサービス」である。
律儀に自分の足跡通りに進む必要はない。
この「書き換え」作業の必要性が学生院生諸君にはまだなかなかご理解頂けていないようである。

「えー、だって、私これだけ苦労したんですよ。こんなに苦労しました、って書いちゃいけないんですか?」

書いちゃダメなの。
まるで何の苦労もなく、すらすらと「頂上まで来ました」というふうに、書き換えて上げないといけないの。
苦労したのは君ひとりの事情であって、その苦労を追体験する義理は誰にもないんだから。
君がそういうことを言うのは、「学術論文とは何のためのものか」という根本のところのみきわめがついていないからである。

学術論文は何のために書くのか?
この問いにきちんと答えられる研究者は多くない。
というのは、ほとんどの研究者は、「自分の研究業績を上げるため」に書いているからである。
修論を書く人は「修士号をとるために」書いているし、博論を書く人は「博士号をとるために」書いている。
つまり、レフェリーに「査定」されて、合格点を取り、何らかの「リターン」を求めて書いている。
だが、それは考え方がまるで間違っている。
論文というのは「贈り物」である。
私たちが先人から受け取った「贈り物」を次の世代にパスするものである。
私たちはゼロからの創造として学術論文を書き、その造物主的な偉業に対して学位や業績評価を対価として受け取るのではない。
私たちはすでに「贈り物」を受け取っているのである。
それを私たちは自分の身体と自分の知性を通して、次の世代に「パス」しようとする。
「パス」するとき、私たちはそこに「何か」を付け加えないといけない。
先人から贈られたものを、「そのまま」差し出すことはできないのだ。
それは rude なふるまいだからだ。
それは野原で摘んできたきれいな花を、そのまま人にあげるよりは、自分の持っている小さなリボンで花束にする方が「気持ちがこもっている」というのに似ている。
印刷した年賀状でも、すみっこに小さく「元気?」とペンで書き添えてあると、受け取った方がちょっとうれしくなるのと似ている。
学術論文というのは、この「リボン」や「元気?」と同じ人類学的機能を果たしている。
私が学術論文において書いていることは99%までが私が先人から教えてもらったことである。
残り1%が私の「リボン」である。
でも、わずか1%とはいえ、それはなくてはならぬものなのである。
それは学術論文が「贈り物」たらしめるために不可欠なのである。
野の花を摘んで「花束」にするときに、私はいろいろな気づかいをする。
ばらけないように、持ち運びしやすいように、花瓶に入れやすいように、挿したときに後ろの方に茎の長い花、手前に茎の短い花が来るように・・・
それが「リボン」の仕事であり、それが「学術性」ということである。
それは、「先人の知見」と「自分のオリジナルな意見」をきちんと分ける、ということでもある。
どこからどこまでが引用で、どこからどこまでが創見であるのかが分からないような不分明な書き方が学術論文で許されないのは、それでは「贈り物」にならないからである。
リボンがないと花は束ねられない。
どこまでが花でどこからリボンが分からないようなカオスは花束にはならない。
でも、いちばんたいせつなのは、その花束は自分の部屋に飾る物ではなく、「ひとにあげるもの」だということだ。
引用出典を明記せよ、ということを学生に繰り返し教えるのだが、なかなかその意味が分からないらしい。
巻末に「参考文献」というふうにまとめて列挙してあって、「あちこちからちょっとずつつまみ食い的に引用してます」と言って、しらっとしている。
あのね・・・君は「君の論文を読む人の身」になったことがある?
君の論文の中に、非常に興味深いデータがあったとしよう。なんでもいいや、例えば、「心理学者である山田金太郎博士の最近の研究によれば・・・」というような文があるとする。
それをみて、「あれ。『山田金太郎』って、あの金チャンのことかな。あたしの初恋の・・・、金チャン、いまどうしてるんだろ?」と思った読者がいたとする。(花ちゃん、ね)
でも、君の論文では「参考文献」として30冊の本の題名がどたっと並べてあるだけだ。どの本のどの頁を読めば金チャンの知見や近著を知れるか、花ちゃんにはまるで分からない。
だから、参考文献リストにあった本を全部買うか借りるかして、一冊ずつはじめから終わりまで読むほかに調べる手だてがない。たぶん、その作業には数週間か数ヶ月かかるだろう。(おまけに、君が山田博士のコメントを読んだのは新聞記事かなんかで、それは参考文献にさえ挙がっていなかったりする)
こういうのって不親切だと思わないか?
君が脚注をつけて、引用出典の頁数を示しておけば、ほとんどその日のうちに金チャンの近況は花ちゃんの知るところとなる。
これだって花ちゃんへのささやかだけれど「贈り物」になるだろう?
そういうことだよ、学術性というのは。
それを科学の用語で言えば「追試可能性」というのだ。
君が使ったデータとそのまま同じものが「誰にでもすぐアクセスできるように」しておいてあげること。
それが苦労してデータを取ったひとが「あとから追試する研究者」のために贈ってあげることのできる最良のプレゼントの一つだ。
きちんと出典を明記するのも、説得力のある論証を行うのも、明晰判明な文体を心がけるのも、利用した学術ソースへのアクセシビリティを確保しておくのも、すべては「(贈り物をしてくれた)先人への感謝」と「(贈り物をしてあげる)読者への奉仕」のためなのだ。
論文は自分のために書くものじゃない。
だから、「私はこんなに勉強しました」とか「私はこんなに苦労しました」というようなことは学術論文に書くべきことではない。(そういうことは、ウェブ日記に書けばよろしい)
それは贈り物の手作りケーキに添えて、材料費のレシートとちらかった台所のポラロイド写真を差し出すようなものだ。
それがどれくらい「はしたない」ことかは君にでも分かるだろ。
それと同じだ。
学術論文で「話がくどい」というのは、そういう意味で「はしたない」ことなのだよ。
論文はどれほど苦労して書いたものであっても、あくまでスマートに、エレガントに、シンプルに、さりげなく読者へ向けて差し出さなければならない。
きれいなリボンをつけて、「元気?」というメモも添えてね。