自己評価委員会。13時より17時までの長丁場。
自己評価・自己点検。これは90年の大学設置基準の大綱化にともなって文部省から大学に「努力義務」として課せられたものである。
「努力義務」?
なんだろ、これは。
「ヴォランティア活動の義務化」「創造性の数値化」「革命性についての社会的合意」・・のようなものであろうか。
努力する義務ね。
「やりとげなくてもいいけど、やる姿勢だけはするように」というふうに理解させて頂いてよろしいのであろうか。
私はそれでもちろん構わない。
というわけで本日の自己評価委員会の議案は「教員評価システム」の原案策定である。
教員たちの「創造性」を「数値化」し、その「革命性」について「社会的承認」を与えようというスターリンも毛沢東も(たとえが古いなあ)泣いて喜ぶ知のデジタル化だ。
そういうことなら任しといて下さいと、文部官僚が読んだら喜んでいただけるに違いない原案を策定してご審議頂く。
私のそのシニスムを理解してくれる人もいるし、理解していただけない人もいる。
困るのは、私が意図的に「官僚的作文」として起案したこのシニックな教員評価システムで「高得点を取りたい」というふうに本気で考えている教員たちがいることである。
彼らは自分がその評価方式で高い点を取ることができるように算定方式を「改善」しようとする。
あのね、こういうシステムは「そんなものにはたいして意味がない」という前提に立たないと運用できないものなの。(「そんなもの」というのは、俸給とか身分とか予算配分のことである。研究業績や教育活動のことではないよ)
それはビジネスが「金にはたいして意味がない」という前提に立たないと成功しないのと同じである。
「たいして意味がない」ものだからこそシステムは操作可能であり、そこからベネフィットを引き出せる。それ自体に「意味がある」と思ったら、もう私たちはシステムの虜囚であり、システムが私たちからベネフィットを引き出すようになってしまう。
ともかくも、議事は進行、めでたく修正案を策定する。
これを7日の教員研修会でご提案させて頂くことになる。
おそらく教員の中には私をそのようなプラグマティックな査定方式の有効性の信奉者であると思う方々もおられることだろう。
「大学というのは知性の自由の最後の砦じゃないか。それを査定だの考課だのと・・・君は学者なのか、それとも文部科学省の走狗なのか!」
だから、ちゃいまんね。
(2003-02-04 00:00)