2月3日

2003-02-03 lundi

ゼミの卒業旅行とて、城崎温泉に「蟹ツァー」にでかける。
行き先はいつもの西村屋招月庭。参加者10名。JR宝塚駅に集合して、「遠足」気分でわいわ騒ぎながら2時間で雪の城崎へ。
こちらはうんざりするほど仕事を抱えているので、当然シグマリオン帯同。
学生たちを「放し飼い」にして、ひとり自室に籠もって、温泉に入る間もなく、まず『ミーツ』の原稿直し。引き続き、『レヴィナスとラカン』の原稿書き。

これほど興奮して原稿を書くのは久しぶりのことである。
なんと、レヴィナス先生はかつていかなる哲学者もなしとげたことがなく、なしとげようと企てたこともない人類史的力業-「すべての死者」の鎮魂-を、ひとことも宗教の用語法を用いずに、ひたすら哲学の術語を前言撤回し、宙吊りにし、抹消記号を付すという語法を駆使するだけで語り切ろうとしたのである。
さすが私が「お師匠さま」と仰ぎ見る方だけのことはある。
やることのスケールが大きい。
フッサール批判、ハイデガー批判、ブーバー批判、などというのは、先生のお仕事のほんの一面にすぎなかったのである。
頭の堅い講壇哲学者はレヴィナス先生の企ての法外さに想像が及ばず、むしろ街レヴィ派のような「ふつうの読者」にレヴィナス先生のスケールの大きさが直感されるという事情もこれで腑に落ちる。

腑に落ちたので、温泉に入り、ただちに「蟹を食す」というより「蟹と戦う」あるいは「蟹を殲滅する」という趣の蟹コースに突入する。
蟹酒、蟹のお造り、蟹の茶碗蒸し、茹で蟹、焼き蟹、揚げ蟹、蟹しゃぶ、蟹の炊き込みご飯。
われわれ10名だけでおよそ30尾ほどの蟹を殲滅した。
ホテル全体ではおそらく千余の、城崎温泉全体では数万からの蟹が一夜にしてひとびとの胃袋に収まったものと推察される。
このような「大量虐殺」を日々続けていては日本海の蟹の絶滅も時間の問題である。「ズワイガニ」「マツバガニ」などをワシントン条約の保護動物に指定しなくてよいのであろうか。
「蟹腹」となって沈没した一行はしばらくおとなしくキムタク・ドラマなどを観じていたが、やがて私の部屋に乱入してきて、横井さんと薬師神さんのバースデイパーティというものが執行される。
深更に及ぶと恒例の「告白タイム」となるので、こちらは「えええ、そ、そんなことって・・・」と驚きつつ、若者たちのラブライフについての社会学的リサーチを粛々と行う。

今回の発見は「元彼」(「もとかれ」と読んでね)というものが現在若い女性において、ラブライフのキーマン的存在になりつつあるという事実である。
これまで『ガチンコ晩餐会』や『ロンブーのガサ入れ』などの教化的な報道番組において、若いカップルの会話に「元彼女」「元彼」という語がひんぱんに出没することにウチダはささやかな疑問を感じていたのであるが、どうもこの「元彼」というのが最近の若い男性諸君にとってはたいへんにカンファタブルなポジションであるらしい。
責任はないが、まるっきりの他人ではない。距離があるだけに、彼女の考えていることがよく分かり、その嗜癖性癖はもとより熟知している。この「友だち以上、恋人未満」という中途半端なポジションを利用して、そこから最大限のベネフィットを引き出すということが最近の若い男性諸君のひとつの恋愛戦略らしい。
いきおいその結果、「元彼」は「今彼女」と「元彼女」と同時並行的にお付き合いすることになるので、「今彼女」としてはけっこうやきもきするのであるが、その「今彼女」も実は「今彼」の目を盗んで「元彼」にその「やきもき」の相談をもちかけたりしているのである。ああ、ややこし。

ウチダの見るところ、同じ現象は『アリー・マクビール』にも見ることができる。
ご存知のひとはご存知、ご存知ない方は当然まるでご存じないであろうが、アリーとビリーとジョージアって、「モノカノ」「モトカレ」「イマカノ」のトライアングルなのである。アリーには次々と求愛者が訪れるのであるが、それらはことごとく周囲の干渉によって破綻し、結局「モトカレ」ビリーがわりと「美味しいとこどり」しており、それを咎めるものとていないのである。

私の少年時代に「モトカレ」などという社会的立場は公認されておらなかった。
もしそのようなものがあれば、私は当然「練達のモトカレ男」というようなものになっていたであろう。惜しいことをした。