2月1日

2003-02-01 samedi

京大会館にて作田啓一先生や龍谷大学の亀山佳明先生らが主宰される研究会「分身の会」主宰で講演をする。お題は「レヴィナスとラカン-彼らはどうしてあのように分かりにくく書くのか?」
二日前に突如天啓を受けて、『存在するとは別の仕方で』の新しい読解アイディアを得たので、忘れないうちに、それを講じる。
たいへんオープンハーテッドなオーディエンスであったので、勢いにまかせてがんがんしゃべる。
しかし用意した原稿は150枚。そのまま読み上げても2時間半。与えられた時間はマックス1時間半ということで、ラカンのところは大幅にはしょり。
『存在するとは別の仕方で』の新解釈とは、レヴィナスの「他者」とは「死者たち」のことである、という解釈。
われながらなかなかユニークな解釈なので、「イントロ」だけ「予告編」でご紹介しておこう。全文は海鳥社刊『レヴィナスとラカン』でね。

 レヴィナスは1930年にフランスに帰化し、39年にはフランス軍に軍事通訳として応召され、開戦後すぐに捕虜となりました。このときレヴィナスはフランス軍兵士として捕虜になったためにウィーン条約に保護され、ユダヤ人でありながら、強制収容所に送られることをまぬかれました。しかし、その間に、レヴィナスがリトアニアに残してきた家族のほとんどはナチスによって殺され、パリに残した妻もユダヤ人狩りに追われていました(危地にあったそのレヴィナス夫人を救ったのは学生時代からの親友モーリス・ブランショです)。
 レヴィナスはユダヤ人捕虜部隊に編制されましたが、他のフランス人捕虜と待遇が違ったわけではありません。ウィーン協定の下で、レヴィナスは「ユダヤ人」であるより先に「フランス軍兵士」として認定されたのです。
 同じフランスのユダヤ人市民が、「フランス人であるより先にユダヤ人として」認定されることでドランシーの国内収容所からアウシュヴィッツやダッハウに送られていたときに、レヴィナスだけは「兵士」であったために、生き延びるチャンスを得たのです。近親者や同胞たち迫害に苦しんでいるときに、エマニュエル・レヴィナスは「フランス人」として身の安全を確保したのでした。そして、収容所でレヴィナスは彼の近親者や同胞たちがどのような運命をたどりつつあるのかを知ることなく、ありあまる余暇を『実存から実存者へ』の執筆と読書に当てていました(そして、そのときレヴィナスが読んでいたのは、聖書でもタルムードでもなく、プルーストとヘーゲルだったのです)。
 この捕虜経験は、(本人はもちろんそういうことは書いていませんが)、死者たちに対する「生き残ったものの疚しさ」を拭いがたい仕方でレヴィナスに刷り込み、レヴィナスの思索とエクリチュールに宿命的な「ねじれ」を呼び込んだのではないかと私は想像します。
 レヴィナスは、ユダヤ人としての彼のアイデンティティを(否認はしないまでも)示差的に有意ではないと判定した「権力」のアイデンティフィケーションのおかげで生き延びることができました。〈ホロコースト〉を、そのような「恣意的な身元認定」のせいで生き延び得たという自己史的な事実をどう受け止めるか。これは戦後のレヴィナスの思索の起点となったと私は考えます。
 自分は生き延びたという現実がある以上、イノセントな告発者として、他の被迫害者と唱和して、ナチスドイツやヴィシー政府の鬼畜の所業を糾弾するということにレヴィナスはためらいを覚えたはずです。現に、戦後のフランスに吹き荒れた対独協力者の粛清についても、レジスタンスについても、レヴィナスは発言を自制しています。この沈黙にはもちろんレヴィナスの個人的な節度の感覚も働いていたのでしょうが、それと同時に、被害者としてあるいは勝利者として発言することを彼に「許さない」死者たちの切迫を感じ取っていたからではないでしょうか。
 こういう立場に立ち尽くしたものは、いったいどのようにしてこの経験を言語化することができるでしょうか。被害者でありながら、加害者であるかのような負い目を死者たちに対しては感じずにいられないはないものが取りうる語法とはどのようなものとなるでしょうか。
 レヴィナスが「前言撤回の語法」を駆使したことについては前章で述べたとおりです。それはたしかにタルムードにおけるマハロケットの伝統を汲んで、それを哲学的なエクリチュールに応用したものであるという説明で、ある程度は話が通るのです。ですが、それだけではないような気が私にはするのです。
 アイデンティティを否定するみぶりそのものをアイデンティティの基礎づけとするような主体性、それはハノーヴァーの捕虜収容所におけるレヴィナスその人の主体性のあり方ではなかったでしょうか。レヴィナスは死者たちに対して、生き延びたものとしての自責と、死者たちを鎮魂する使命とをふたつながらに重く感じていたということはなかったのでしょうか。 
 そのような仮定を立てると、戦後のレヴィナスの軌跡がある程度説明できるように思われてもきます。ユダヤ人青年たちのための教育事業への献身、東欧のユダヤ人社会の消滅とともに危殆に瀕したタルムード学の継承、ナチズムへの共感を公言した旧師ハイデガーに対する徹底的な批判、こういったレヴィナスの事績は、彼が「生き残ったユダヤ人としての勤め」ということを強く意識していたことを伺わせます。少なくとも、フッサールの『イデーン』とハイデガーの『存在と時間』の哲学史的意義を説くことに知的努力を集中させていた戦前のレヴィナスにはほとんど感知できなかった「ユダヤ人としての使命感」のようなものを私たちは戦後のレヴィナスには顕著に見出すことができるように思われます。
 生者はつねに死者たちに敬意と畏怖を、疚しさと義務感を同時に覚えます。
 「あなたたちはもうここにはいない。しかし、私はあなたの声を聴き取るためにいつも耳を傾けており、あなたを迎えるためにつねにわが家の扉を開いている」というのは生者が死者に向かって語る「鎮魂の祈り」のことばの基本です。注意深い読者は、このことばづかいがレヴィナスの他者論とほとんど同じものであることにお気づきになるはずです。
 レヴィナスは繰り返し「他者」とは「寡婦、孤児、異邦人」であると言います。私たちはこのことばをふつうは「弱者」「貧者」「保護なき人々」、「被抑圧者」、「被差別者」、「被迫害者」、「プロレタリアート」・・・と、総じて無権利状態にあり、私たちが支援の手を差し伸べるのを待望しているある種の「社会的立場」というふうに「存在的に」解釈しています。たしかに、「他者」はそのような人々を優先的に指称しています。しかし、「それだけ」で尽くされてはいないはずです。レヴィナスが「他者」ということばを使うとき、そこには「死者たち」も含まれているのではないでしょうか。保護なき「寡婦、孤児、異邦人」について語るときに、レヴィナスの念頭にあったのは、具体的にはアウシュヴィッツの、ダッハウのユダヤ人たちのことだったのではないでしょうか。
 以下に「他者」をめぐるポワリエとの対談を採録してみます。レヴィナスのことばの中の「他者」を「アウシュヴィッツの死者たち」と読み換えて読んでみると、私たちはそこに哲学的な他者論以上の「祈り」に似たことばを読みとることができはしないでしょうか。

 「ポワリエ:他者に対する、他者の身代わりとしての有責性は、具体的にはどのような行為として実現されることになるのでしょうか?

 レヴィナス:他者はそのあらゆる物質的窮状を通じて私にかかわってきます。ときには他者に食料を与えることが、ときには服を着せることが問題になります。それが聖書の言っていることです。
 飢えているものには食べ物を与えなさい。裸で行くものには服を着せなさい、渇いているものには水を飲ませなさい。身を寄せる場所のない者には宿を貸しなさい。人間の物質的側面、物質的生活、それが他者について、私が配慮すべきことなのです。
 他者について、私にとって深い意味のあることなのです。それが私の『聖性』にかかわることなのです。
 これまでたびたび引用したマタイ伝の二五章の対話を思い出して下さい。

 『おまえたちは私を追い出し、私を狩り立てた。』
 『いつ私たちがあなたを追い出し、狩り立てたことがあるでしょう?』
 『おまえたちが貧しい者たちに食べ物をあげることを拒み、貧しいものたちを追い払い、彼らに見向きもしなかったときに!』

 他者に対して、私は食べること、飲むことから始まる有責性を負っているのです。いわば私が追い出した他者は私が追い出した神に等しいのです。(...)  過失を犯していないにもかかわらず、罪の意識を抱くこと! 私は他者を知るより先に、存在しなかった過去のあるときに、他者にかかわりを持ってしまっていたのです。」
Levinas/Porie, Emmanule Levinas, Babel, 1996, p.114

 もちろんレヴィナス自身はアウシュヴィッツで死んでいった「寡婦、孤児、異邦人」に何の責任があるわけでもありません。彼自身、同じ暴力の被害者だったのですから。彼は「潔白」です。それにもかかわらず、レヴィナスは彼らの死に責任を感じずにはいられません。レヴィナスが戦時捕虜として読書と(キリスト教徒の)友愛の機会に恵まれた、比較的耐えやすい収容所生活を送っているあいだに、彼の同胞たちは無惨な死を経験していたのですから。
 そう考えると、レヴィナスが「過失を犯していないにもかかわらず、罪の意識を抱き、他者を知るより先に、他者にかかわりを持ってしまっていた」と書くときの理路は決して思弁的なものではないことが分かります。
 とくに注意して読んで欲しいのはこの一節です。「私が追い出した他者は私が追い出した神に等しいのです」。
 レヴィナスが物質的かかわりを持つことができなないまま非業の死を遂げた人々がいます。その死者をレヴィナスは「追われた神」(un Dieu chasse) に等しいと感じます。
 他者は「寡婦、孤児、異邦人」であり、同時に「神」でもあります。「死者」たちと「神」はまったく別のカテゴリーに属するようですが、実は「私」に拭うことのできない有責感をもたらすという点では同じものなのです。
 「私」はかつて彼らを「追い出した」のです。もちろん、犯意があったわけではありません。けれども、それとは知らずに「私」は彼らに手を差し伸べることを忘れていたのです。「私」はそのような悲惨さを「彼ら」が経験していることを知りませんでしたし、「私」に具体的に「彼ら」を救出する手だてがあったわけでもありません。「私」の側には「彼ら」の受難について何ら咎められるような事情はないのです。にもかかわらず、「彼ら」が飢え、渇き、裸で荒野をさまようことを余儀なくされたと知ったときに、自責の念に苛まれるのです。
 「私」は「彼ら」の追放に荷担したわけではありません。「私」には責任がないのです。しかし、それにもかかわらず、「彼ら」の受難に「私」は「関係ない」ということができないのです。
 「『私には関係がない』と言うことができない」(non-indifference)、これがレヴィナスの有責性の構造ではないかと私には思われます。フィリップ・ネモとの対談で、レヴィナスははっきりこう言っています。

 「私は私が受けた迫害についてさえ有責です。ただ有責なのは私ひとりです! 私の『近親者たち』、私の『民族』、彼らはすでにして他者たちです。だから彼らのために私は正義を要請するのです。」Levinas, Ethique et infini, Fayard, 1982, p.95

 「私が受けた迫害」(les persecutions que je subis) についてさえ私は有責であるということばは、これまでレヴィナスの倫理のほとんど法外なまでの愛他主義を表すことばとして解釈されてきました。しかし、「同じ迫害」を受けながら、ハノーヴァーの収容所とアウシュヴィッツの収容所のあいだに存在した隔絶について、「死者たち」と「生き残ったもの」のあいだに存在した隔絶についてのレヴィナス自身が味わったであろう身をよじるような自責について考えるなら、「私が受けた迫害についても私は有責である」というレヴィナスのことばは、決して思弁的に導出されたものではなく、身体の奥底から絞り出されるように溢れてきたことばとして読むほかないのではないでしょうか。そうでなければ、「有責なのは私ひとりです!」(Mais seulment moi!) ということばの悲痛さは理解できないでしょう。

以上、「予告編」終わり。
このあと、「存在するとは別の仕方で」(autrement qu'etre) とは実は「死者を鎮魂するための必然の語法」であった、という「レヴィナス哲学=鎮魂祈念論」へとどどどと流れてゆくのである。
書いている当人がいうのは何だけれど、これは「カッキ的」なレヴィナス論である。管見の及ぶ限り、「他者」についても「彼」についても「第三者」についても「住まい」についても、ウチダはこれほど明快にしてかつ説得力あふれるレヴィナス解釈を読んだことがない。(まだ書いてないんだけど)
刮目して待つべし。