1月22日

2003-01-22 mercredi

今日の夕刊に「センター試験二分遅れ『追試で救済』提案」という記事があった。
つい先日こちらもセンター試験の試験監督をしたばかりなので、「なになに」と興味をもって読んだが、なんだか気持ちが片づかない。
こういう記事である。

「19日に行われたセンター試験二日目の理科1の試験で、二松学舎沼南キャンパスの一つの試験場で開始が約二分遅れた。一部の受験生から時間延長を求める声があったが、そのまま終了した。その後も不満の声が寄せられたため、同センターはこの教室で試験を受けた受験生に電話で、病気や事故で受けられなかった受験生のために25日と26日に行われる追試験に参加するように提案した。受験生からは『追試験では救済にならない』との声が出ている。」

センター試験の会場校の人間としてはいいにくいことだけれど、私の率直な意見は「二分くらいどうだっていいじゃないか」ということである。
そんなことでガタガタ言っていると、大きくなってからたいした人間になれんぞ。
二分の不足で他の受験生に対して大いなる不利を蒙ったと思うなら、素直に追試験を受ければよいではないか。
しかるに「追試験では救済にならない」とはどういうことなのか。
本試験の点数をその分割り増しにしろとか、満点にしろとか、タイムマシンで19日まで時間を戻せとか、そういうことを言いたいのだろうか。
そもそも、すべての受験生は同じ条件で試験を受けられるということ自体、「ありえない」ことなのだ。すべての受験生はそれぞれの仕方で、それぞれに「不利な条件」をこうむっている。
追試験があっても、本試験の18日19日は病気で受けられなくて、追試験の25日26日にはさらに病気が悪化する受験生だっている。彼らにとっても「追試験は救済にならない」ことは同じである。
どうすればよいというのだろう。
追試験を一年中やってベストコンディションのときの点数を採択しろというのだろうか。
まさかね。
たしかに試験時間の遵守というのは、重要なことだ。
しかし、私も受験生であったからよく覚えているが、それよりはるかに理不尽な「不利な条件」に耐えなければならないときはいくらもある。
試験場の外を走る車がうるさくて試験に集中できなかった受験生や、試験場の暖房が熱すぎて頭がぼおっとなってしまった受験生や、前の席の受験生が絶え間なくしゃっくりをするので気になってしかたがなかった受験生や、隣の席の受験生が去年別れた恋人だったので、どきどきしちゃったという受験生には、いかなる救済措置も講じられていない。
段取りの悪い試験監督のせいで試験時間が二分足りないというようなディスアドヴァンテージはこれから先の人生でいくらでも起こる「納得できない不利」に比べれば、まあ屁のようなものだ。
それを追試験で救済しようではないかとセンターが言っているのに「救済にならない」というのは、どういうことか。

私は現役の受験のときに京大法学部を受けたが、京阪電車がポイント凍結で2時間遅れ、1時間目の終了直前に試験場にたどりつき、雪の吹き込むふきっさらしの廊下で、びしょびしょのままかじかんだ指で、20分間少ない試験時間で受験したことがある。(もちろん、いかなる救済措置も講じられなかった)

一浪の早稲田政経のときは、ラッシュの電車のなかで魔法瓶が割れ、下半身ぐちょぐちょの状態で試験を受けた。(もちろん、いかなる救済措置も講じられなかった)

東大の二次試験では、一橋を受験していると聞かされていたのでそこにいるはずのない兄ちゃんが私の前の席にいきなり出現し、数学の試験の間中、兄ちゃんの「うううう」といううめき声を聴きながら解答したのである。(もちろん、いかなる救済措置も講じられなかった)

そのようなさまざまの不測の事態に遭遇しつつ、私はいくつかの試験に落ち、いくつかの試験に受かった。
大学受験なんていうのは、「そういうもの」である。
東大の二次試験は、正門での検問(そういうものがあったんだよ、「入試粉砕」を呼号されている方々がいたから)で、私の顔をみた教官が吐き捨てるように「受験生も変わったよな」と隣の教官につぶやくのを聞いてムカツク、というところから始まった。(まあ、タクシーで正門前にのりつけて、サングラスで葉巻をくわえて受験票を差し出したのだから、当然といえば当然のリアクションではありますが)
そのようなさまざまの苦難を乗り越えて受験生は試験を受けるものなのである。救済措置があるんだから、それに文句を言うのは贅沢というものだ。(と書いた後、翌日の朝刊に、その試験室で受験した25名のうち6名が追試験の受験を申請したという記事があった。のこりの19名は「二分くらい、いいよ」と判断したわけである。なるほど)