ひさしぶりに暖かく快晴。少しぼおっと煙っていて、大阪湾が今日は見えない。
机の前をみあげると海が見えるというこのロケーションはほんとうに心地よい。
この二年間わりと集中してものが書けた理由の一つは、この御影のマンションからの眺望の素晴らしさとあたりの静けさだろうと思う。
「どこに住むか」ということは、とてもたいせつなことだ。
家賃や駅からの距離や間取りや日当たりというようなことは、ほんとうに家の快適さを決める条件の一部、それもまったく副次的な条件に過ぎない。
いちばんたいせつなのは、その場所が「よい気」を持っていることである。
土地には地脈というものが流れている。
人間の身体に気脈や経絡や勁道が流れているのと同じである。
よい地脈が流れているところに暮らすと、その地の気に身体に感応して、たいへんに気分がよろしい。
悪い土地に暮らすと、(それがどれほど交通至便であろうとも、日当たりがよくても)、その土地の発する微弱な瘴気に当たって、心身がだんだんと損なわれてくる。
ふつうは、そういう土地は足を踏みれたところで「なんとなく、やだな」という感じがするものである。
むかし、東京にいたころ、何度目かの引越で、不動産屋にある物件を紹介してもらったことがあった。
東横線の学芸大の駅のそばで、間取りも日当たりもよく、家賃もリーズナブルだった。
でも、ぐるりと部屋を歩いたあと、「ここには住みたくないな」と思った。理由は分からない。
いっしょにいた妻(当時)も「ここは何か変だ」と同意してくれた。
不動産屋はどうしてこんないい条件の物件をいやがるのか、理解できないと言って怒りだした。
いくら憤慨されても、いやなものはいやである。
理由は結局分からなかったが、私はそういう「何か変だな」という感覚はたいせつだと思う。
そのしばらくあと、知り合いの若い夫婦が結婚して半年で離婚したことがあった。
いっしょに暮らしだしてから、関係が非常にとげとげしくなり、口げんかが絶えず、結局別れてしまったのである。
あとで、彼らが暮らしていた土地が沼を埋め立てた場所で、古くは「蛇塚」という地名であったことを教えられた。
こういうのは「関係ない」と思う人にとっては関係ないことだ。
しかし、人間の感情というのは、月の満ち欠けや潮の満干や天候や気温、湿度によっても変化するものである。
デュルケームは平均気温と自殺率のあいだには相関関係があると主張していたし、むかし読んだ『学士会報』では、南太平洋のリゾート地の地磁気を測定した学者が、リピーターの客が集まる土地と、リピーターの少ない土地では、地磁気に有意な差があると報告していた。
土地からはさまざまな「情報」が発信されており、私たちの身体はそれと知らないうちに、それを感じ取っている。
ある場所に立ったときに、「なんだか気分がよい」と感じるか「なんとなく気分が悪い」と感じるか、それがそのあとの人生にとって、ときに決定的な分岐点になることがある。
中にはそういうことをまったく感知できない人もいる。
人間の身体は便利なつくりになっていて、見たくないものは見ない、聴きたくない音は聴かない、感じたくない震動は感じないようにモードを切り替えることができる。
悪い土地で暮らす人の多くはマイナスの気を「感じない」モードで生きている。
そうしないと生きてゆけないのだから、とりあえずそうする他ない。
しかし、瘴気を感じらない人は、同時に人間の発する悪意や憎悪や嫉妬や羨望に対しても鈍感になるし、人間の発する微妙な身体的メッセージも感知できなくなる。
悪い気を感じない人は、同時に、救いを求めている人がいても気づかないし、親愛の挨拶を送られても気づかない。
そういう人たちはゆっくり、でも確実に人間たちのネットワークから疎外されてゆくことになる。
来月私は芦屋に引越する予定である。
候補の物件はいまのところ五つ。一昨日、一つだけ見た。大原町のマンションの2階。
交通至便ではあるし、家賃も安いのだが「ちょっとね」だった。
明日、東芦屋の物件を見にゆく、なんとなくそこで決まりそうな気がする。(かなぴょんのご実家から走って10秒のところ)
(2003-01-22 01:00)