1月19日

2003-01-19 dimanche

オフなので、終日原稿書き。
年末までに原稿を渡すはずだった角川書店の幸福論、新曜社の身体論、晶文社の映画論の直しがまだ終わらない。
洋泉社の原稿も三月までには書き上げないといけない。
2月1日には京都で研究会があり、「レヴィナスとラカン」の第二弾を演じないといけないのだが、仕込みが遅れている。
2月7日には教員研修会があり、そこで大胆にして画期的な教員評価システムのプレゼンをしなければならないのであるが、その原稿もまだ一枚も書いていない。
どういうわけだか、こういうときは「あまり急がれていない原稿」の方が書きやすいので、ついついそちらから書いてしまう。
関西電力のメールマガジンの原稿と『身体運動文化』の研究報告をとりあえず書き上げる。
岩波の『図書』の原稿もぼちぼち書き始めないといけないし、そろそろ『ミーツ』の次の締め切りが来る。
「物書き廃業」したはずなのに、相変わらず「物書き」仕事にあおられまくっている。
なぜだかよく分からない。

夕方まで仕事をして杖の稽古に出かける。
誰も来ていない。
寒いからであろうか。
誰もいないので、一人稽古をする。
まず居合の稽古。(ひとがいるときにはあまり刀を振り回すわけにはゆかないからね)
古流の形を遣ってみる。なかなかよくできた形である。
以前はぶんぶん剣を振り回して遣っていたが、どうもそういうものではないように思われる。ゆっくり身体の各部の動きを調整しながら抜く。
要するに太刀を遣うときは、太刀を遣ってはいけない、ということだと納得。
そんなことを私ひとりに納得されてもみなさんは困るだろうからご説明するが、剣とか杖というような道具はどうしても得物が「主」、身体を「従」になりやすい。剣に振り回され、杖のまわりを身体が走り回るというようになりやすい。これは対敵動作で、相手を主としおのれを従として身体を使うのと原理は同じことである。
敵の存在が、私たちの心身ののびやかな運動を妨げる「マイナスの負荷」になるということは誰にでも分かるが、武器もまた「マイナスの負荷」になるということはわかりにくいかも知れない。
でも、そうなのだ。
それはなまじ身体能力を局所的に高めるがゆえに、かえって心身のバランスのよい統御を困難にする。
だから古流の形の多くは「剣や杖が邪魔になる」ように構成されている。
たとえば大森流初伝の「逆刀」は(居合の形にはよくあるけれど)柄頭を床に固定して、左半身を一重身に開いて抜刀するところから始まる。剣を前に抜けないようなネガティヴな条件づけをしておいて、そのようなとんでもない不利な状態からスタートして身体を「割る」稽古をするのである。
形は操剣の技法である以上に操身の技法である。
杖の九本目の「雷打」では頭上にかざした杖が身体の割りを妨害する。杖を反転させようと杖を中心に考えると身体もつられて回ってしまう。身体は直線的に割り、杖だけが反転するように遣うためには、杖を持っていることを忘れないといけない。
持っているけれど、持っていない。
そこにあるけれど、それに囚われない。
そういう心と身体の使い方を覚えるために居合や杖の形稽古はたいへんにすぐれたプログラムなのである。
結局、ひとりで二時間稽古して、ひさしぶりに汗をかく。