1月14日

2003-01-14 mardi

忙しい一日。メールを読んで、返事を書いて、卒論と修論を読んでいるうちに半日が終わる。
『女性学』の最後の講義で、西宮のアクタに駆けつける。石川先生、谷先生、風呂本先生との合同講義である。
最後なのでラウンドテーブル方式で学生諸君と意見交換をしようと思ったのだが、私と風呂本先生のあいだで議論が始まってしまった。
風呂本先生は正統派の穏健なるフェミニストであり、たいへん立派な方なのであるが、惜しむらくはジュディス・フェッタリーの『抵抗する読者』理論の支持者であり、その点において、「フェッタリーはバカだ」と断定して憚らないウチダとは不倶戴天関係になる。
ただし今回のバトルのテーマは文学論ではなく、「女性の社会訓練の是非」というわりとリアルなものである。
石川、風呂本両先生はこの点ではだいたい意見が一致されていたのであるが、女性の就職差別、賃金格差、管理職登用の少なさ、女性政治家、企業家の少なさなどの原因を女性の社会的訓練の不足、女性の社会進出を支援しない行政の不備、労働者に年間3000時間もの非人間的労働を強いる日本企業の後進性と、社会保障の不備のうちなどに見る。
私はあまりそういうふうな考え方をしない。
私は統計的なことより、ひとりひとりの生き方ということを機軸にして社会の問題を考えるからである。
たとえば、非人間的な労働時間に耐えるのは、そうしなければ暮らせないからだという説明に私はあまり説得されない。
年間3000時間ということは、コンビニの店員をして時給800円もらっているとしても年収240万円ということである。
これは一人の人間が都会で「最低限の文化的生活」を送るには十分足りる金額である。
しかし、ほとんどの労働者はそれ以上を稼いでいる。なにしろ、日本の一世帯あたりの平均年収は761万円なのである。
これは「働き過ぎ」というより「稼ぎ過ぎ」ではないのかと私は思う。
そんなに要らないから、仕事減らそう、というふうにどうして考えないのだろう。
「そんなのなくても生きていけるもの」を買うために、多くの人は骨身を削り、ときには命を縮めている。
過労死する人も、「心の病」に罹患する人もどんどんふえている。
それについて行政の責任を問うとき、同時に、「なんで、そんなに稼がないといけないの?」と当の労働者自身に問うてみる必要はないだろうか。
「家のローンを払わないといけないし・・・」というのなら、「なんで家なんか買ったの?」と問う必要はないだろうか。「子どもを私立の大学にやってるし・・・」というなら、「なんで大学なんかにやるの?」と問う必要はないだろうか。
自分で「これだけ稼がないと生きていけない」ような生活水準を自主的に設定しておいて、その上で「過労だ」と嘆いてる労働者に対して私はあまり同情的ではない。
過労にならない程度に生活水準を下げるという切り替えがどうしてできないのだろう。
稼ぎたければたくさん働かなければいけない。たくさん働くのがいやなら「ビンボー」を受け容れなければいけない。
単純な算術だ。(ただし日本における「ビンボー」人は、国際規格では「めちゃリッチ」のカテゴリーに入ることを忘れてはいけない)
別に私は日本の社会保障制度に問題がないと言っているのではない。企業の労働者への配慮が足りていると言っているのでもない。
社会保障制度に不備があり、ある種の企業が労働者を死ぬまでこきつかうような体質を備えていることはとりあえず私たちには事実として知られている。
それを「生き延びる」ことがまず先決ではないかと申し上げているのである。
「過労死」した人間がいる以上、制度の改革を要求してゆくのは正しい。
しかし、それ以前に、「ひとを過労死させかねないシステムの中で過労死しないですむ方法」を自分の問題として考えることが必要ではないだろうか。
いま存在する「ろくでもない制度」の下で「とにかく生き延びる」ことの方が問題としての切迫度は高いのではないだろうか。
その上で、女性の社会進出や社会訓練を支援しようという発想にどうしてもなじめないのである。
おっしゃるとおり、労働者を過労死させ、使い捨てでリストラするのが現代の企業社会であるとしたら、どうしてそのような場所に積極的に若い女性たちを送り込もうとするのか。
就職への参入者がふえればふえるだけ、求職倍率は上がり、失業率が上がり、賃金は下がり、雇用条件は悪くなる。
どう考えても、それによって雇用関係が今より好転することは期待できない。
しかし、これはあえてつけた「いちゃもん」であって、実際にはこれは統計的な空論にすぎない。
というのは、労働者を過労死させるようなのはごく一部の企業に過ぎないからだ。
経験的に言えば、成功しているビジネスほど社員に対する拘束は少なく、社員ひとりひとりの心身の健康を気遣っている。
それが生産性をあげるための当然の配慮だからだ。
別にきわだってヒューマニストである必要はない。「算盤勘定」ができる経営者は社員をたいせつにするものである。
労働者を過労死させるような企業の経営者はコストパフォーマンスの計算の立たないバカである。
そして、バカが経営する会社は資本主義社会では成功しない。
だから、社会進出を求める若い女性にほんとうに必要なのは、人を過労死させるような企業に入社したあとになってから、企業経営者や行政の責任を問うロジックを学ぶことより、むしろ「バカが経営している組織」と「スマートなひとが経営している組織」をそれ以前に見きわめる能力を身につけることだと私は思っている。
経験的に言って、「バカな会社」と「スマートな会社」はまったく別種の組織であり、そこですごす時間はまったく別種の人生となる。
資本金だの売り上げだの初任給だの福利厚生だの通勤時間だの「御社の将来性」だのを基準に就職先を選んだあげくに、「スカ」を就職先に選んでしまったとしたら、悪いけれどその責任はあげてご本人にある。
就職活動をする学生にとって、「バカな会社」と「スマートな会社」の差をみきわめるということは、サバンナに住むトムソンガゼルが「ライオン」と「シマウマ」の差をみきわめること以上に命がけの判断なのである。
というようなことはなぜかどのメディアもアナウンスしないのである。まあ、広告出稿している企業のかなりが「バカ企業」であるから当然かも知れないけど。