1月8日

2003-01-08 mercredi

終日原稿書き。角川書店の『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(仮題)を書き上げる。
もともとは「語りおろし」という不思議な形式で出すはずの本だったのである。
角川のオッファーはわりと遅めだったので、すでにバックオーダーが10冊くらいたまっていた。とても二三年うちに本は出せない。
しかし、私は本人も認める「賞味期限の短い物書き」であるので、先方としても、あまり悠長に待っているわけにもゆかない。
そこで編集のY本さんが思いついたのが、「口述筆記本」。
え? しゃべるだけでいいの? なら、いいすよ。一日で済むし。
と気楽に構えてがんがん8時間しゃべったものをテープ起こししてもらったのを聞いてみたのだが・・・これが、繰り返しは多いし、話はくどいし、言ってることはデタラメだし・・・とてもそのままお店に出せるような代物ではない。
しかたがないので、頭からこりこり書き直していたら、いつのまに全編書き下ろしになってしまった。
全編書き下ろしといっても、内容はどうせ同じ口先から出るものだから、「いつもと同じ話」である。
「なんだよ、またあれかよ」と読者諸氏はお思いになられるであろうが、そういうものである。
これについては、本文に言い訳が書いてあるので、それをそのまま採録しておこう。(予告編ね)

 現にいま書いているこの本だって、ぼくがホームページの「どこか」でもうすでに書いていることと内容的には重複しているわけです。ほとんど、どこかで聞いたような話の蒸し返しなわけです(同じ人間が書くことですから、そうそう違うわけがありませんよね)。だから、今読んでいる人の中には「あ、これ読んだ、これ前に聞いたことがある」ということがそこここにあると思います。でも、「だから買わない」ということにはならない(現に、今、買って読んでるし)。
 ある著者の「愛読者」というのは、その人の「新しい話」を読みたくて本を買うわけじゃない。むしろ「同じ話」を読みたくて本を買うんだと思います。
 志ん生の落語を聴きに来る人は、「前に聴いたのと同じの」を聴きに来るわけです。「まくら」が同じだと言って喜び、「オチ」が同じだと言って喜ぶ。そういうものですよね。現に、志ん生が「ま、ここはあたしに任しておいて下さい」というと会場はわっと湧きます。こういうのは林家三平の「身体だけは大事にして下さい」とか、植木等の「お呼びでない?」といっしょで、同じことば「だから」いい、というものなんですよ、ほんとに(たとえが古いですけど)。
 桑田佳祐君の音楽なんかだって、ファンは毎度「違う音楽」を聴きたいんじゃないと思いますよ。『勝手にシンドバッド』と同じ曲想の音楽を何度も何度も聴きたいんですよ。
 音楽というのはそういう麻薬みたいなもので、同一のものが微妙な差異を含みつつ反復することのうちに快楽があるわけです。それこそがポピュラー音楽の王道なわけです。
 「新しい音楽性を求めてグループ解散」とか「同じものばかり求めるファンにはもうつきあっていられない」とかいう「クリエイティヴな」ミュージシャンいますけれど、そういう人って、たいていそのあと人気なくなりますよね。
 同じものの反復服用が快感なんだ、ということがこういう「クリエイティヴ」な人には分かってないんじゃないかな。
 これは内田百間先生に教えて頂いたですが、同じものを食べ続けていると「味が決まる」ということがあります。
 百間先生は、ある時期、昼食に蕎麦を食されることを習慣とされていた。同じ蕎麦屋から毎日同じもり蕎麦を取る。別にうまい品ではない。でも、毎日食べていると「味が決まってくる」。食物を待望する胃袋と嚥下される食物の質量が過不足なくジャストフィットすると、たかがもり蕎麦がいかなる天下の珍味も及ばぬ、極上の滋味と感じられる。たまたま出先で時分どきを迎えたりすると、もういつもの蕎麦が食べたくて我慢できない。先方が気を利かしたつもりで「鰻丼」など取ると、これを固辞されたそうです。
 快楽はある種の反復性のうちに存する。これを洞見と言わずして、何と言いましょう。
 「同じものばかり求めるファンは怠慢だ」という人がいますけれど、それは筋違いです。ファンほど快楽の追求に貪欲な存在はありませんから。それこそが「正しいファン」のあり方なんです。
 ぼくがひそかに「心の師」と仰ぐ大瀧詠一さんが、山下達郎君に向かって、彼が比較的同じタイプの楽曲を繰り返し制作するのを評して、「山下君は偉い! それはね、同じものを求めてやまないファンに対する、君の大いなる愛情だよ」と何年か前の『新春放談』で言ってましたけれど、この批評は適切だと思いますね。
 桑田君とか山下君とかって、やっぱり愛情がある人なんですよね。ファンに迎合しているということじゃなくて、愛情がある。だからこそ、彼らの音楽は二十年にわたって支持されてきたんだと思いますよ。
t  志ん生師匠や百間先生や山下達郎君と比較するのは僭越ですけど、こういう本を作るときの要諦というのも、やはり「だいたい同じで、ちょっとだけ違う」ということだと思います。トピックは違っても、切り口はいつもと同じ、というものを読者は求めていると思います。少なくとも、ぼくが本を読むときはそうですね。
 ぼくは村上春樹と橋本治と矢作俊彦と村上龍と高橋源一郎のものは新刊が出ると本屋に走って行って買いますけれど、みんなほんとうに律儀に「いつもと同じ」ことを書いているんですよね。だから大好きです。
 村上春樹が60年代ポップスの悪口を書き出したり、矢作俊彦が横浜に飽きたり、高橋源一郎が健康のためにジムに通いはじめたりしたら、がっかりしちゃって、もう読む気なくなりますよ(いや、読むかな、やっぱり)。

というような感じのテクストである。「ですます」と「ぼく」というのが、「口述筆記本」のテイストをかろうじて残しているし、次々と観念奔逸的に連想が横ずれしてゆくというのも、ウチダのふだんの語り口のままだが、内容はほとんど全部書き直してしまったのである。
こういう文章を夜中にウイスキーを啜りながらこりこり書いていたのである。
この角川本は4月に出るらしい。