12月17日

2002-12-17 mardi

朝日新聞の取材がある。
学芸部の記者の方が「大衆社会」について20分ほどお話を伺いたいという。20分のインタビューのために東京から神戸まで来てもらうのはいくらなんでも申し訳ないので、「電話取材でいいですよ」と申し上げたのであるが、会ってお話しがききたいというので、来てもらうことになった。
エリートと大衆、公益と私益というようなずいぶん古めかしいフレームワークでしばらく話す。こういう論件が「古めかしい」というふうに思われずに改めて論議されねばならないというところが当世の問題なのかもしれない。
残り時間の大半は朝日新聞批判。
連載を寄稿している人間と、朝日の記者自身とが口を揃えて「朝日はこのままではいかん」と言うのであるから、問題はかなり深刻である。
最大の問題は、おそらく送り手も気づかないうちに、「口にしてもよいオピニオン」の許容幅が年々狭められているということである。
意見の幅だけでなく、記者が深みのある知見を語るということはほとんどなくなった。
拡がりも奥行きも、みんなが「このへんで、いいべ」というラインを無意識に手探りして書いている。だから、どの頁を開いても「同じような」トーンの記事ばかり読まされることになる。

均質的である、というのは誤解されやすいことばだが、「隣の人間と似ている」という意味ではない。(間違えないでね)
人間誰だって隣の人間と似ている。
ただ、あまり似ていると気分が悪いので、ちょっとだけ変化を付けるのである。その変化によってもたらされた差異が有意であれば、とりあえず「私のアイデンティティ」というものは記号的に認知される。
このメカニズム自体は、どれほど混質的様な社会であろうと均質的な社会であろうと、まったく同じように働いている。
違うのは、均質的な社会というのは、あまりに狭いニッチにぎうぎう詰めで人が暮らしているせいで、ほんのわずかな、目にもつかないようなトリヴィアルな差異でさえも「記号的に有意」なものとして認識される、ということである。
「均質的な社会」に暮らす人々といえども、主観的には「少しも均質的ではない」のである。
だって、隣の人間とはたしかに違うんだから。
ただ、まつげの長さが1ミリ違うとか、瞳の彩度が1度違う、という程度の微細な差異でさえもがくっきりと有意化されて個体を差別化する記号的差異として認識されるというのが「均質的な社会」なのである。
そういうトリヴィアルな差異を検出できる、というのはある意味では一つの才能である。
「米粒に1000字書く」文化の国なんだから、そういうのはお得意である。
「米粒に1000字書く」ということは、米粒の幅に1000種類の記号的差異を読みとれるということであり、米粒が一合もあれば、そこに全宇宙がカタログ化される、ということである。
日本社会の均質性というのは、そういう種類の均質性である。
日本人たちのあいだにも差異はたしかにある。
しかし、それがあまりに微細なので、社会全体を遠目で見ると、成員全員が「米粒幅」にぎっしり詰め込まれているようにしか見えないのである。
私はそれが「息苦しい」と申し上げているのである。
日本の若いミュージシャンの音楽を聴いていると、私には全部同じにきこえる。
やっているご本人たちは「オレたちの音楽は、ぜんぜん違うよ。あんなのと一緒にしないでくれよ」と口を尖らせて怒るだろうが、「それでも、同じにきこえちゃう」ということについては、一考したほうがよい。
それは、彼らが棲息している音楽的ニッチが非常に「狭い」ということである。
「ニッチが狭い」ということ自体は別に悪いことではないし、中にいる人間たちが「これでいい」と言うなら、端から文句をつける筋合いでもない。
だけど「狭いよ」、と私は申し上げているのである。
すごく狭いところに犇めき合っている(「犇めく」は「ひしめく」と読むのだよ。実感がこもっているね)こと、それ自体は悪いことではないが、「そこが世界の全部だ」と思っているのは、あまりよくないことである。
混質的な社会と均質的な社会の違いは、トータルで成員をずらりと横に並べてみたときに、違和の幅が広いか狭いかということである。
そこで市民として許容される個性の「カタログ」が厚いか、薄いかという違いである。
どちらの社会も「差異の数」は市民分だけある。
問題はひとりひとりの「差異の幅」である。
差異の幅が広い社会は、生態学的にニッチが広い。だから、いろいろなタイプの人間が棲息することを許される。
ニッチが広い社会なら、音楽だって、文学だって、映画だって、政治過程だって、経済活動だって・・・みんなもっともっと「自由気まま」なもののはずだ。
それがほんとうに恐ろしいほど狭苦しい許容範囲にぎちぎちに詰め込まれている。
その「外側」があるということに思いもよらないし、みんなが不機嫌なのは「酸素が足りない」からだということにも気づいていない。
そして、狭苦しいニッチの中で、「午後五時11分01秒と午後五時11分02秒のあいだの黄昏の色調の差異」みたいなものを差別化することに必死になっている。
メディアは、そういう日本社会の均質性を言説のかたちで先取りしていると私には思えるのである。

朝日新聞が帰ると、朝日カルチャーセンターから講演のご依頼が来る。
信田さよ子さんという家族問題をテーマにしているカウンセラーの方と家族問題をめぐっての対談という企画。信田さんが私の本を読んで、一度話をしてみたいということでのご指名頂いたそうである。
コーディネイターの米山さんという女性は以前、甲野善紀+田口ランディ対談(司会・ドクター名越)という異種格闘技イベントをプロデュースした豪傑である。あきらかに「ご縁ライン」がくっきりつながっているのが分かる。

講演依頼が済むと、『日経ウーマン』という雑誌からインタビュー依頼。
これも女性記者の企画のようである。
私の書いた本の愛読者であるとおっしゃるのであるが、「女の人はあまり仕事なんかしないで、ごろごろしてましょう」というようなことを提唱している人間が『日経ウーマン』といういうなばりばりのメディアで発言したりしてよいのであろうか。

神戸女学院の中高部からお電話がある。
中高の礼拝でお話をしてくれというご依頼である。高校生たちから中高部長に「大学のウチダ先生を礼拝に呼んでください」というリクエストがあったそうなのである。
まさか中高生が『おじさん的思考』などという本を買うはずもないので、これは詮ずるに、彼女たちが『ミーツ』を愛読しているということなのであろう。
礼拝で話をしたことは二度あるが、中高生の前というのははじめてである。
中高生たちに言いたいことはやまのようにあるので、話させていただけるのなら、いくらでも話すが、時間は8時半から50分まで。朝早くてつらそうだ。

文学部事務室のメールボックスを開けると、「大田区東矢口・・・」のO井さんという方からお手紙が来ている。
「東矢口のO井さん」といえば、『おじさん的思考』に出てきた「毛皮を着た青学の綺麗な女の子」である。しかし、名前が違っている。
開封してみたら、そのかつてのガールフレンドのお母さんからであった。
たまたま『婦人公論』と『讀賣新聞』を読んで、そこで偉そうなことをしゃべっている男の写真に、その昔、のべつ家に上がり込んで、ぱくぱくご飯を食べたり、ごろごろTVを見たりしていた、娘のボーイフレンドだった不良大学生の面影を見て、なつかしくなったのでお手紙を下さったのである。
あのころは、このお気楽な青年はこの先どうなってしまうのかと懸念しておりましたが、立派に初志貫徹されて学者になられたのですね、これからも応援してますよ、という温かい文面であった。
この母上は思い返すと、なかなか親身な方であった。
「あら、また来てたの」と冷たく睨まれたこともあったが、よくご飯を食べさせてくれたし、ときどき私に「そんな夢みたいなことばかり言ってないで、卒業してちゃんとしたサラリーマンになったら」というような説教もしてくれた。
お嬢さまとはつきあって二年ほどで別れてしまったので、それ以来、矢口渡(やぐちのわたし)の駅では降りたことがない。