12月13日

2002-12-13 vendredi

期間限定物書き廃業の日まであと2週間となった。
「もうしわけありません。ウチダの営業は終了しました。またのおいでをお待ちしております」と仕事を断るのはどれほど気分のよろしいことであろうか。(すでに新年からの連載を二社断ったが、なかなか気分のよいものである)
バックオーダー19冊の本はもちろんこれからも書き続けるが、メディアには出稿しないのである。
どうして、メディアに出稿したくないのか、その理由はいろいろ考えたし、いろいろ書いたが、最近、またひとつ腑に落ちることがあった。
メディアにものを書くと、怒る人間が多いからである。
私のところに「怒りのメール」というものを送ってくる人がときどきいるが、これが例外なしに新聞雑誌の読者である。(そのほとんどは朝日新聞の「e-メール時評」の読者である)
たいがいは「さきほど新聞を開いたらこのような非常識なことが書いてあったが、いったいおまえは何というとんでもないことを言うのであるか」というような感じの叱責メールである。
「おまえの本を大枚投じて購入したが、ろくでもないことばかり書いてあった。金返せ」というような投書は来ない。
同じように、図書館で借りて読んだ人も、友だちに勧められて読ん人も、ブックオフで買って読ん人も、私のところには文句を言ってこない。
なぜ新聞雑誌の読者はその怒りをただちに私にぶつけ、量的にはその数十倍非常識なことが列挙してある単行本の読者は私に向かっては怒らないのか。
詮ずるに、それは、ここに「自己責任」というものが介在しているからである。
大枚を投じて、新刊でバカ本を買ってしまったことは私にも経験があるが、そのときの怒りの向かう先は自分の選書眼の低さであり、著者ではない。
図書館や古書店で本を選ぶときに読むべき本を間違えたのは誰でもない自分である。
ろくでもない本を勧めるような愚鈍な友人を持っているのは他でもない自分である。
バカな文章を読み、時間を空費した責任はあげて「ご本人」にあるわけで、そこに書いてあることがくだらなければくだらないほど、自責と自己嫌悪の念は高じるのである。
人はそういう恥ずかしい経験を積み重ねて、しだいに「本の選び方」にも「友の選び方」にも慎重になってゆくのである。だから選書における自責と自己嫌悪はすぐれて教育的な経験であると言わねばならない。
しかるに、新聞雑誌などで「何気なく読んだ」文章については、読者の側には「選んだ」自己責任というものがない。
だって、その人は、まったく違う目的(政治記事を見るとか、料理記事を見るとか)でその媒体を購入したわけで、その購入自体は本人にとって自己責任に照らしてなんら非の打ち所のない「適切」な行為だからである。
そこに、たまたま「ろくでもない文章」が載っていた。
こんな「ろくでもない文章」に対してオレは金を払ったつもりはないぞ、と読者は思う。
おっしゃるとおりである。
「金を払ったもの」については人間にはそれを「選んだ」自己責任というものが生じるが、「金を払ったつもりのないもの」に対しては、一片の有責性もない。
だから、一読したあとの怒りと不満はストレートに著者に向かってゆくことになるのである。
「なにをぬかすか、このバカは!」
ということでさっそく私の名前を検索し、そのホームページを訊ね当て、そのメールアドレスに「怒りの投書」をしてくるのである。
こういう短絡的な怒りの投書の中に掬すべき知見が語られるということは経験的にないので、私は通常そういうものは、二三行読んでそのまま「削除」してしまう。
しかし、最近ちょっと興味深い同傾向の投書が二つあった。興味本位でつい最後まで読んでしまった。
それをご紹介したい。
ひとつは「貧乏を恥じるのは恥ずかしい」という趣旨のエッセイについてのものである。
『朝日新聞』をお読みでない読者のためにまず私の書いたものの全文を掲げる。

人事院のマイナス勧告に準拠して、私の勤務する大学でも給与が下がることになった。
それと同時に専任教職員の減員、担当コマ数増など、労働強化も進みそうな気配である。給与は下がり、仕事は増える。そういう時代なのだから仕方がない。こういうときは考え方を切り替える方がいい。
友人のビジネスマンが前に「絶対会社を潰さない秘訣」を教えてくれた。「入る金より出る金が少なければ、会社は永遠に潰れない」というものである。なるほど。
にもかかわらず,実際には破産する企業があとを断たない。
なぜか。
それは人間が「生活水準を上げる方向には簡単に変化できるが、下げる方向には変化しにくい」生き物だからである。
経営が赤字になってもじゃぶじゃぶ配当や賞与を出すようなことができるのは企業の財務体質の問題というより経営者の心性の問題である。
彼らは貧乏になるのがいやなのだ。
会社が貧乏になったら、そこで働く人間もいっしょに貧乏になるというのは「ものの道理」である。それを嘆き悲しむことも恥じることもない。
貧乏であることを卑しむ心根は貧乏であることよりずっと貧しい。
広い一戸建てが狭いアパートになり、ベンツが軽四になり、ハワイが江ノ島になるくらい、どうだっていいじゃないか。
国産の軽四、性能いいし。

と書いたところ、それは「金持ちの言い分」ではないかという抗議がと来た。
あなたは貧乏ではないから、「貧乏だっていいじゃないか」というようなお気楽なことが書けるのである。人間の人生を変えるような貧乏だってあるはずだ、というご指摘である。
この人に対しては次のようなメールでご返事した。(この人の書き方が礼儀正しかったので、そういうときはご返事をするのである)

メール拝受しました。
あの時評で書きたかったことは一つだけです。
それは「貧乏であることを卑しむ心根は貧乏であることよりずっと貧しい」という一行です。
貧しさというのは比較の中でしか機能しないものです。
日本は2000年の一人当たりGDPはルクセンブルクについで世界二位です。(37,556ドル)アメリカより2000ドルほど上です。これはフランスの1・75倍、スペインの2・7倍にあたります。
年収377万円の二人以上世帯にある家財の普及率は、冷蔵庫、洗濯機、カラーテレビが99%、エアコンが78%、VTRが71%、自家用車が73%です。
平均世帯年収は761万ですから、その半分でもこの生活ができるということです。
このような状況の中で自分を「貧しい」と感じる日本人は、何を基準にしてそう感じているのでしょう。
昨日の新聞によると、グアテマラの日雇い農民の日給は240円です。365日一日も休みなく働いても年収87、600円です。
グアテマラやソマリアの人の前に立って、なお自分の生活を「貧しい」と言える日本人がいるでしょうか。
貧しさというのは、限定的な比較の中でしか意味のないことばです。
あなたの場合でしたら、自分と同世代の、自分と同じような階層の、同じような能力をもった同学齢集団のなかでの比較で、自分の貧乏というものを位置づけていると思います。
でも、そういう比較はほんとうに視野の狭いものです。
そういうことばにあまり振り回されるべきではない、ということを私は書いたのです。
「人生を変えるような貧乏」というのは、グアテマラの農民のような救いのない貧困のことだと私は思います。
その状況では、ほとんどいかなる個人的努力も報われる可能性がないのですから。
今の日本で、ほとんどいかなる個人的努力も報われる可能性がないような仕方で未来が閉ざされた「貧乏人」は、ごく少数の例外的事例だけだと私は思います。

次の回には「古書店の出店規制と図書館への補償金」の問題について書いた。こんな文章である。

最近著作権について二つのことが話題になった。
ひとつはブックオフに代表される巨大な古本屋の出現によって、コミックを中心に新刊の売り上げが下落したことに漫画家たちが不安を抱いて、規制を訴えたこと。ひとつは公共図書館が無料で本を貸与するせいでさっぱり新刊が売れないから、図書館は補償金を出せ、と作家たちが言い出したことである。
いずれも新刊が売れない出版不況というご時世が背後にあってのことだが、この訴えに私はあまり共感できない。
もの書きのはしくれとして基本的なことを確認させて頂きたいが、私たちが何かを書いて発表するのは「一人でも多くの読者に読んで欲しい」からである。頒布形態がどんなものであるかは副次的なことである。
古本屋であろうが、図書館であろうが、インターネットであろうが、どんな媒介を経由したにせよ、書いたものが一人でも多くの読者の眼に触れれば私は嬉しい。
金銭的なリターンはあればそれに越したことはないが、なくても別に構わない。
書いた本を全部裁断する代わりに一億円払うというオプションと、その本を全国の図書館に無料配布するのとどちらがいい?と問われたら、私は迷わず後者を選ぶ。
いま一瞬でもためらった人は物書きには向いてないと私は思う。

これに対して、怒り心頭に発した人からはかなり痛烈な罵倒メールが届いた。
ことばが乱れていて、よく意味が取れなかったのだが、「筆一本で生きている売文業者」の気持ちがお前のような安楽な身分の大学教師にわかってたまるか、という趣旨のものであった。
私はこの手の「おまえのような・・・にオレの気持ちが分かってたまるか」というようなワーディングをする人間の話はまともにとりあわないことにしているのだが、気になることが書いたあったので、ちょっと解説させていただくのである。

私は別に貧苦にあえぐ「売文業者」のみなさんのお仕事の邪魔をしたつもりはない。
ブックオフについては「コミックの新刊が売れなくて困る」という漫画家の事例を念頭において書いたのである。この運動の発起人にはちばてつや、松本零士といった超メジャーなみなさんが含まれている。『ジョー』と『ヤマト』があれだけ稼いで、まだ新刊が売り足りないのかなあ、というのが私の率直な印象である。
ようやくコミック単行本が出たばかりの新人マンガ家の場合にしても、一人でも多くの読者に名前と画風を知られることの方が、(そして、その読者が次は新刊を買ってくれる可能性に賭ける方が)いくばくかの印税を確保することよりもクリエイターとしてのコストパフォーマンスはよいのではないだろうかと考えたのである。
図書館で本を借りる人間多すぎて新刊が売れないから、図書館は補償金を払えという作家たちの言い分も私にはどうしても理解できない。
作家たちの言い分とおり、図書館が新刊購入のたびに、それに上乗せして、作家に対して補償金を払うということになると、その結果として、年間に購入される新刊は補償金分だけ「減る」ことになる。
補償金分だけ新刊書は売れなくなり、図書館利用者はその分読む本の点数が少なくなる。
これによっていったいどこで誰が利益を得ることになるのか私にはよく分からない。
私に怒りのメールを送りつけてきた売文業者の方は、ブックオフを出店規制し、図書館から補償金を取り立てることで、具体的にどういう利益を得ることになるのであろう。
あるいはこの怒りは、単に余技で本を書いている程度の「お気楽な大学教師」が、必死で働いている売文業者の業界について知ったようなことを言うんじゃないというようなことを意味するだけなのかもしれない。
大学教師が余技で本を書いて、「ぼくの書くものはコピーフリーです、ははは」というような気楽なことを言っていられるのは、他に定収があるからだ、筆一本の人間はそんなこと言いたくても言えないんだよ、というご指摘はたしかに言われてみればごもっともである。
たしかに私は誰にもきがねせずに「気楽なことを書ける」ポジションにいる。
しかし、このポジションは天から降ってきたわけではない。
これは30年かけて獲得した私の立ち位置である。
原稿用紙のマス目を埋めてお金を稼ぐという渡世のスタイルは21歳から30年を越した。
技術翻訳、ラジオテレビの放送台本家、児童図書の下訳・・とあれこれ試行した果てに、学術論文のエクリチュールがいちばん性に合っていると判断し、「好きなだけ本を読み、好きなだけ書ける」この渡世を選んだのである。
これが私にとってはいちばん気分よく「書ける」立ち位置である。
それをして「気分のよいポジションからものを言うな」と言われても困る。
ひとは誰しも「気分のよいポジション」に立ちたい。だからこそそれぞれに刻苦勉励しているのである。
「書く」というのは作家やジャーナリストたちが考えているような、狭苦しい「営業」のことだけを言うのではない。
「書く」というのは、もっと自由で闊達なものだし、そのスタイルはさまざまなものがあってよいはずである。
ガリ切りの同人誌も、壁新聞も、インターネットのウェブ日記も、筐底に秘された草紙も、ラブレターも、学術論文も・・・すべての書き物は、「書くとは何か」というむずかしい問いについて、それぞれに有益で深遠な回答を含んでいる。私はそう考えている。そして、私は「インターネットで発信する学術的物書き」という固有のスタンスから「書くとはどういうことか」について私見を述べているのである。
書くことと金銭的リターンがじかに結びついた職業をしている人間だけが「書くことのプロ」であり、それ以外のライティング・スタイルを取っているのは「シロートさん」なんだから書くこと問題については、黙って引っ込んでろ、というのは、その人たちの夜郎自大な「職業幻想」にすぎないと私は思う。