12月12日

2002-12-12 jeudi

12のゾロ目は畏友久保山裕司君の命日である。
96年の12月だから、あれからもう6年になる。
久保山君は、毎年書いているけれど、私が大学生のときにいちばん影響を受けた友人である。
友を選ばば書を読みて、六分の侠気四分の熱という俚諺がある。もしかすると文言を間違えて記憶しているのかもしれないけど、久保山君はまさにそのことば通りの快男児だった。
彼は「書を読む」人であった。
高校時代にも読書家は私のまわりにたくさんいた。
うんざりするほどいた、といってもいいくらいだ。
けれども久保山君のように、それが一瞬のうちに骨肉化するような、ダイハードな読み方をする人はいなかった。
高校時代の秀才たち(天才もいたけれど)にとって、書物は「書物的知識用ストッカー」にきちんとラベルを貼られて、「必要なときにいつでも取り出せる状態」にファイルされていた。
でも、久保山君の本の読み方はそうではなかった。
久保山君は、ほとんど無節操に本を読んでいた。そして、どんな本からも、彼のハートに「ぐぐっと」くるフレーズを見つけ出した。そして、それを極上のワインを舌の上で転がすように、何度も何度も口ずさんだ。そして、五分くらいで、そのフレーズは彼の語彙に登録された。
大学一年のある日、彼は初等フランス語の文法の教科書を読んで、命令文の例文の「ルネ、窓を閉めなさい」(Rene, fermez la fenetre)という一フレーズに「ぐぐっと」来た。
たぶん [f] と [r] と [e] の音の連続が、彼の詩的語感のどこかに触れたのであろう。
その秋、級友の漆間君(当時は梶井君)の軽井沢の別荘で、クラス闘争委員会の合宿があったときに、久保山君はそのフランス語のフレーズを秋の空に向かって何度も繰り返しつぶやいていた。
それはハイデガーやメルロー=ポンティや矢沢永吉や中原中也のフレーズと同じように彼の語彙に登録され、それは同時に彼のまわりにいた私たちにとって、「久保山語録」の一つとして記憶されたのである。
本というのはこういうふうに読むこともできる、ということを私は久保山君から教わった。
「音の響きがいい」というような理由で選ばれたフレーズが哲学者の箴言と同じ資格で私的な語彙を形成してもよいのだ、というような言語に対するひろびろとした感覚を私はそれまで誰からも教わったことがなかった。
既存のどんな知的基準にも拘泥しないで、自分の身体的な「気持ちがいい」という感覚に知性の有り金を賭ける潔さを私は久保山君のうちに見た。
以後、それは私の言語的倫理の規範となった。そして、その規範は何度も私を窮地から救ってくれた。
その点について、私はこの友人にどれほど感謝しても尽きせぬほどの感謝の気持ちを抱き続けているのである。
友の冥福をあらためて祈る。
久保山君の若き日の肖像は、ホームページの「非日常写真館」に若き日のウチダの脳天気な顔とともに、掲載してある。