破滅的に多忙な日々が続く。
なんとか仕事はこなしているが、仕事のクオリティがあきらかに下がっている。
ひとつの仕事にかけられる時間が激減しているのだから当たり前である。
いちばん顕著なのが、家事である。
家の中がだんだん汚くなってきた。
ときどき掃除はしているのだが、じっくり片づけている暇がないので、だんだんと「澱」がたまるように、部屋のあちこちに小さなカオスが生成してくる。仕事机の上ももうものを置くスペースが30センチ四方しかないほどにものが積み上げられている。
ばりっと掃除をして、きちんとものを片づけて、すみずみまでぴかぴかに磨きたいのだが、掃除のようなものはさんさんと日の注ぐ朝に、モーツァルトを聴きながらやる、というのがつきづきしいもので、深夜に仕事帰りで疲れ果てた身体にむち打って、ひいひいやるものではない。
しかしその「さんさんモーツァルト午前」というものがいまの私にはなかなかおとずれないのである。
本日も休日なのであるが、出勤である。全学の教職員研修会である。
大学の危機について「認識を共有する」ための集まりなのである。
大学の危機を「なんとかする」ための方策を相談するための集まりではない。
そういう集まりをしないと、大学の危機についてまるで認識がない教職員がやまのようにいる、ということそのものがほんとうに問題である。
私は自己評価委員長として、教育の品質管理ということを申し上げている。その中には授業改善も学生指導の緻密化も教員の勤務考課もすべてふくまれる。それが向かう方向は「管理の強化」である。
ウチダは気質的に管理の強化が大嫌いな人間である。
そのウチダが「管理の強化」の喫緊なることを言い出すというのであるから、本学の窮状も知れるというものである。
システムが機能不全になる場合にはふたつの場合がある。それぞれに対処法が違う。
システムが「タイトすぎる」場合がある。(日本の政治や教育やメディアはそういうケースである)
そういう場合は、システムの「あそび」をもう少しとって、ノイズやバグを発生させるほうがシステム全体のアウトプットは質的にも量的にも向上する。
システムが「ルースすぎる」場合がある。
そういう場合は、システムの「あそび」を取って、芯を一本通す必要がある。
システムの機能不全には、「ゆるめる」対応と「しめあげる」対応がある。
本学のシステム不全は誰が見ても「ルースすぎる」ことに起因している。そうである以上、システムの改善は、「どうやって締め上げるか」というふうに立てるのが本筋だろう。
誤解してほしくないが、私は「ルースである」とか「レイドバックである」とかいうことが嫌いな人間ではない。どちらかといえば、大好きな人間である。
末端が自律的に機能していて、現場の判断でどんどん問題が処理されてゆき、中枢は昼寝していても大丈夫、というシステムが私自身は大好きである。
しかし、ものには程度というものがあり、いまの本学は末端が自律的になりすぎて、パート間の有機的連携が損なわれているし、中枢からの指示も届かない。
「締め上げ」策の一つとして、私はこのところ「教育活動の品質管理」ということをうるさく申し上げているのである。
(2002-11-30 00:00)