11月29日

2002-11-29 vendredi

あと15冊と書いたら、さっそく柏書房から「遠州、森の石松」という件名のメールが届いた。
清水一家の子分衆といったら、大政、小政に、法印大五郎、桶屋の鬼吉・・・
「誰か忘れちゃいませんか」
はい、忘れておりました。もう一冊ありました。柏書房刊『おじさんの光』。
あと16冊でした。
と書いているところにまた電話が鳴って・・・
「あの・・うちのがリストにないんですけど・・・」
青春出版の『哲学のレッスン』を失念しておりました。
あと17冊でした。
失礼いたしました。(実は文春の二冊も忘れていたのだが、嶋津さんから別件で電話があったついでに、「あのー、文春でぼく何か書く予定ありましたっけ?」とお尋ねしたら、「二冊企画が出てますけど」とのお答え)
こうなるともう笑うしかない。
そこに筑摩書房の編集のY野さんが登場。
筑摩は5月にオッファーがあって、そのまま企画未定のままきたのだが、今回の打ち合わせで、「葬制論」ということになる。
「弔う」儀礼の意味は加藤典洋さんの『敗戦後論』からあと、ずっと考えてきたテーマなのだが、ここにきて白川静先生のご本を読んで、「そ、そうか、そうだったのか。すべてが繋がった!」と一気に構想が成ったのである。

人間とは本質的に「弔う」存在である。
旧石器時代に死者を弔う習慣を獲得したことによって、人類はサルからテイクオフした。
「弔う」というのは、「かっこに入れる」こと (einklammern) であり、「ニッチを異にする」ということである。
「そこにいるけれど、そこにはいない」というありかた、あるいは「そこにいない、という指標を立てることで、そこにある」というありかたのことである。
死者を棄てて顧みないことも、腐乱した屍体を生活空間に放置しておくことも、死せるものを「かっこに入れ」て敬意をもって遇するというやり方を知らないという点で、いずれも「サル的」である。
あらゆる人間的事象には誕生があり、成長があり、停滞があり、死がある。
生体としての人間がそうであるし、集団もそうであるし、イデオロギーや科学的理説や、芸術や表象や記号もそうである。
そのひとつひとつについて、その死に臨んで、正しく弔うこと、それがとてもたいせつだと私は思っている。

『女は何を欲望するか?』というのは、フェミニズムを「弔う」本であった。
フェミニズムはイデオロギーとしてその歴史的使命を終えた。
そのときに、死体に唾し、鞭打つのは不敬な行為だし、死体に化粧をさせて踊らせるのも冒涜的であることに変わりはない。
ただしく弔うというのは、その歴史的功績を称え、成し遂げた偉業を数え上げ、その上で、しずかに棺に蓋をするということである。
そうすればフェミニズムは歴史的経験として記憶されると同時に、私たち全員にとってアクセス可能な「知的リソース」として開かれる。
しかしフェミニズムが瀕死のまま私たちの社会でのたうちまわっていれば、それはもたらすものより破壊するものの方が多い。

死ぬことによって、善きものを後代にもたらしきたす、というのがすべての人間的事象の宿命である。
オレは死にたくない。永遠不変の真理であり続けたい、とわめき騒ぐのは「さもしい」ふるまいである。
どのような理論もどのような学説も、かならずいつかは死期を迎える。
そのときに「正しく弔われた思想」はそのあとも長期にわたって人間社会に恩恵を注ぎ続ける。
弔われなかった思想は、やがて腐臭を放つようになり、ついには野辺に棄てられる。
それがかつてどれほどの輝きをもち、どれほどの「善きこと」を地上にもたらしたかをもう思い出す人は誰もいなくなる。
だから、死んだものは正しく葬らねばならない。

例えば、徳川幕府は300年間の政治的安定を日本に贈ったあと、血なまぐさい内戦を経由して、ゴミのように棄てられた。そのあと数十万の士族もその職を失った。
しかし、明治の人々は、この政治体制の死はただしく弔わなければ近代日本は呪われたまま船出することになるだろうということを直感していた。
だから、徳川時代は、「物語」的な水準で手厚く葬られたのである。
維新の死者たち、戊辰の死者たちについては膨大な「物語」が書き継がれ、語り継がれた。
私たちは幕末の京都で横死した若者たちについて、いまだにそのひとりひとりについて、長い物語を知っている。明治維新からあと130年間、休みなくその「鎮魂のための物語」が語り続けられたからである。
『暴れん坊将軍』も『水戸黄門』も『大岡越前』も『銭形平次』も『遠山の金さん』もすべては江戸幕府の統治機構が「成功していた」事例を賞讃する物語で埋め尽くされている。
だから滅びた政治体制とその殉職者は「祟らない」のである。

それと対照的なのが、大日本帝国と第二次大戦の死者たちである。
この政治体制と戦士たちはやはり血なまぐさい経験の中で死に絶えた。
しかし、戦後日本社会はこの政治体制と死者たちを弔うことを怠った。
死者たちのひとりひとりについて、その肖像をていねいに描き、敬慕するという仕事をした語り手は(吉田満の『戦艦大和ノ最期』のような例外をのぞくと)ほんとうに少数であった。
だから、死者たちはいまだに「祟る」のである。だから、戦後60年、いまだに「戦後は終わらない」のである。傷口がひらいたままだからだ。大日本帝国の屍体が日本社会の真ん中で腐っているからだ。
日本国憲法は足下がおぼつかないままだし、自衛隊は「非嫡出子」扱いのままだし、中国や韓国は「軍国主義」への批判を止めないし、アメリカは日本の「宗主国」であることを止めない。
それは大日本帝国と死者たちの弔いが終わっていないからである。

もっとも典型的な例はノモンハンである。
このまったく非道で無意味な死についての正しい弔いはいまだに果たせていない。
戦後を代表する二人の作家がノモンハンを物語的水準で「弔う」ことを企てた。
司馬遼太郎と村上春樹である。
しかし、この二人の大作家をしてさえ、ノモンハンの鎮魂は果たせなかったのである。それほどにこの事件のトラウマは深いのである。
第二次世界大戦の喪の儀礼をやりとげるためにはおそらく数十年にわたる国民的規模での「物語」の語り継ぎが必要である。
死者たちの経験を物語的水準に「移送する」ことが必要である。
死者のひとりひとりについて、その痛みをその後悔をその欲望をその邪悪さを、複数の語り口で、複数の文脈で、繰り返し物語的に語り抜くことが「弔う」という営みなのである。
そのようにして、死者たちを「別のニッチ」に送り込むことで、死者たちは災いをなすことを止め、「善きもの」を贈る存在となる。
夜行性生物と昼行性生物は、同一の生活空間におり、同一の食物を捕食していても、「共生」することができる。それは「エコロジカル・ニッチ」を異にしているからである。
この生物を、むりやり同じニッチに置いたら、殺し合いを始めるだろう。
限定的なリソースの分配のためには、同一の場所を複数のニッチに切り分けて、棲み分けをすることが必要なのだ。
死者たちには死者たちのニッチがある。生者たちのニッチとのあいだには「幽明の境」がある。それは超えてはならないボーダーだ。
そのボーダーを適切に機能させるということ、それが「呪鎮」ということである。
煎じ詰めれば、私たちの仕事というのは、死臭を放ち始めているものを片づけ、それが災禍をもたらさないように丁重に「あちらのニッチ」に送り込むということだけなのである。
相手が個人であれ、イデオロギーであれ、科学的仮説であれ、会社であれ、国家であれ、私たちがしなければならない仕事は本質的には変わらないのである。