11月25日

2002-11-25 lundi

新聞の投書欄というところはまず読まない。
当然ながら、そこには「誰でも言いそうな意見」しか掲載されないからである。投書者の中にはずいぶんな奇論暴論を述べる人もいるはずだが、それはおそらく検閲ではじき出されてしまうのであろう。だから、私たちがそこから新たな情報や知見を汲み出す可能性はほぼゼロである。
しかし、それでもときどき読むのは、「メディアによる世論操作」の症例研究としてである。
今日目に止まったのは兵庫県15歳のドラフト制度批判。
こんな文章である。

「今のドラフトだと、有能な選手がある球団に偏ってしまう。そんなことをしていると、ある球団が毎年優勝し、数球団だけが人気を保つ。そしてファンはだんだん興味がなくなり、野球の人気はなくなる。/また、選手は職場を選ぶ権利があるのだから、球団も選ぶ権利があると、ある雑誌に書いてあったが、選手はプロ野球という職場を選んだのだから、どこの球団に入団しようと、そこでベストを尽くすべきだ。/勝つことは大事なことである。しかし、どこの球団にもファンはいて、スターを心待ちにしている。」

まったく何の問題もない作文である。
しかし、この「何の問題もない」というところに私はこの15歳を毒している深い病症を感知するのである。
まず第一に、この子どもは(たぶん少年だと思うけど、もしかすると少女かもしれない)「ナベツネ」と「讀賣」巨人軍の悪口は、『朝日新聞』的にはたいへん耳に快いものであるということを知っている。
そして、「15歳の子どもでさえ、ナベツネと巨人の罪業を憎んでいる」という「衝撃度の高さ」によって、大人が書けば採用されない程度の内容でも、掲載されて記念品を貰える確率が高いということを無意識に察知している。
つまり、この子どもはたぶん自身では「ほんとうに言いたいこと」を書いているつもりで、「まわりの大人が喜びそうなこと」を選択的に書いているのである。
いちばん危険なのは、このような意識のあり方である。
人間は「自分固有の意見だ」と思って、「他人の意見」を大声で語る。
というか、人間が大声で語れるのは、「他人の意見」だけなのである。
というのも、「自分の意見」というのは、なにしろ自分だけの意見なのだから、定義からして、他人に承認されたり、同意されたりする可能性が低いのである。だから、「自分の意見」を口にするとき、人間は決して大きい声を出さない。(例えば、自らの性的嗜癖を語るときに大声を出す人間はいない。もし大声でおのれの性的嗜癖を語るものがいたら、それは自分の嗜癖は「みんなとおんなじだ」と確信している人間だけである)
これが「朝日なんてちょろいからよ。無垢な子どものふりしてナベツネの批判書いたら、ぜったいころっとダマされて投書掲載しちゃうぞ。どう、賭ける?」というようなたちの悪いあんちゃんの知的悪戯であるなら、私もほっと一安心なのだが、いまどきそこまで知恵が回る「悪戯好きのあんちゃん」というのも絶滅寸前種であるから、たぶんその可能性はないだろう。
第二に、ここには「自明のこと」として、いくつかの社会的な取り決めについて言及があるが、それははたして「自明」なのか。それについては何も問われてない。
「ファンはだんだん興味がなくなり、野球の人気はなくなる」ということをこの子どもは「困ったことだ」というふうに思っているようだし、その判断に読者全員が同意してくれると思っているらしい。
だが、どうしてそう思えるのであろう。
「ファンがどんどん興味を失い、野球の人気がなくなる」ことがどうしていけないことなのだろう。
だって、君は野球が好きなんだろう?
他の「ファン」のことなんかどうだっていいじゃないか。
ドラフトの運用に失敗して、球団間の戦力が不均衡になってしまったくらいのことで「野球に興味がなくなる」ような人間ははじめから「野球ファン」などではない。
全球団が勢力均衡して、シリーズ最後までハラハラドキドキさせてくれないならプロ野球なんか見ない、というような贅沢なことを言う「ファン」なんか消えたっていいじゃないか。
私が野球ファンなら、そういうふうに考える。
もともとそういう奴は「自分がどきどきする」ことが好きなだけで、野球が好きなわけじゃないんだから。
自分が地上最後の野球ファンになっても、野球を支持することを止めないぞ、というのがファンの心意気というものではないだろうか?
それとも「みんな一緒」じゃないと、野球を見ても面白くないのかな?
だとしたら、君はどっちが好きなんだ?
野球なのか、それとも「みんなと一緒であること」か?
「みんなと一緒であること」が好きなら、別にそれがプロ野球じゃなくてもいいじゃないか。私はそう思うよ。

この子どもの「均質性志向」はしかしここにとどまらず文章の全体に横溢している。
二段の、「選手はプロ野球という職場を選んだのだから、どこの球団に入団しようと、そこでベストを尽くすべきだ」という主張はどう考えても論理的ではない。
この子だって、自分がサラリーマンになったときに、「君はサラリーマンという職場を選んだのだから、どこの企業に配属されようと、そこでベストを尽くすべきだ」と言われたら、びっくりするだろう。
なぜ、サラリーマンや寿司屋や医者や俳優には許される職場の選択が野球選手には許されてはならないのか。
そのことをこの子は踏み込んでは考えない。
一秒考えれば分かるはずなのに。
それはそうするほうがプロ野球機構が儲かるからだ。
それ以外に理由はない。
ドラフトという制度の導入には「その方がプロ野球に客が来る」という以外に何の根拠もない。それは剥き出しのビジネス優先ルールである。
しかし、わが国では、このビジネス優先のルールが「勢力均衡をもたらすよい原理」というふうに誤解されている。(現にこの子も誤解している)
なぜ、勢力均衡であること、「みんなが同じ」であることが無条件に「よいこと」とみなされるのか。
それは「みんなが同じ」であることが無条件に「よいこと」である、とするのが日本社会の民族誌的奇習だからである。
最後の、「勝つことは大事なことである。しかし、どこの球団にもファンはいて、スターを心待ちにしている」というのもその意味ではまったく同じメッセージを繰り返している。
この子にが何よりも優先的に配慮しているのは、「日本中、どこも同じ」であることなのである。
すべての日本人がプロ野球を愛し、すべての市民が地元球団に声援を送り、すべての球団が12年に一度ずつ日本シリーズを制覇するのが、おそらくこの子の夢見る理想社会なのだ。
15歳のおそらくは利発な子どもが、勇を鼓して「自分の意見」を語りだしたそのときに、「誰でも言いそうなこと」を一言一句違えずに繰り返してしまうというこの事実のうちに、私は「日本のイデオロギー教育のみごとな成功の実例」を見出すのである。