11月24日

2002-11-24 dimanche

OECDの学習到達度調査によると、日本の15歳が宿題や予習復習に割く時間は1日25分で、調査に参加した32カ国中最低で、「先進国のなかで突出して短かった」と朝日新聞が伝えている。
子どもの学力が落ちていること、学習意欲が減退していることについては、ちがう印象を持つひともいるだろうが、学習時間が減っているということはまちがいのない統計的事実である。
教育学者の佐藤学は、「日本の子どもはいまや、世界一学ばない子どもたちだ」と語っている。
その理由として、新聞は「学歴信仰が弱まったからだ」としている。
大学を出てもステータスもないし、就職のあてもない。だから子どもたちは受験勉強をしなくなった、というのである。もう一度昔みたいに景気がよくなれば、また勉強し出すだろうというなんだかとんちんかんなコメントをしている人もいた。
しかし、(まだ連載記事の一回目だから批評的コメントは早すぎるが)、それにしても、話がずいぶん単純化されていないか。
私が知る限り、今どきの子どもたちは私たちの子ども時代と比較にならないくらい勉強「させられている」ように見える。
うちの娘が小学6年生のとき、クラス38人のうち学習塾に通っていないのはうちの子ひとりだった。(私が小学校6年生のとき、クラスで学習塾に通っていたのは、たぶん私の他に数人もいなかったのではないだろうか。だいたい、そのころ「塾」と言えば、「そろばん塾」のことだったし)
学習塾というところに子どもたちはずいぶん遅くまで通っているようである。現に、午後10時過ぎに阪急の車内で塾帰りの子どもたちに出会うことがよくある。(あれで一日25分ということはありえないだろう)
小学校六年生をサンプルにとれば、その年齢の日本の子どもの学習時間が先進国最低ということはありえないと私は思う。
しかし、この12歳時点での受験勉強は、この子どもたちの中に「学習意欲」とか「知的好奇心」とかいうものを涵養することにはまったく資すところがなかった。
むしろこの「いやいややらされた勉強」の反動で、子どもたちは以後坂道を転げ落ちるように勉強しなくなり、ついに15歳時点で世界最低になる、というのが日本の実状ではないのだろうか。
問題は子どもたちの側の学習意欲の消長にあるのではなく、ほとんど子どもたちから学習意欲を組織的に奪い去るように「のみ」機能している家庭と学校の側の問題なのではないか。
ただし、私が現行の教育システムに問題ありという時のスタンスは、「教育が崩壊している」と主張する諸賢とはかなり意見を異にしている。
日本の「教育」は実に徹底しており、これほど効率的にひとつの規格化された人格を生み出すことに成功している教育システムはおそらく世界に類例を見ない、と私は考えている。
日本では教育が失敗しているのではなく、「成功しすぎている」のである。

子どもというのは生来かなり資質や気質や能力や関心にばらつきがある。
植物と同じで、子どもたちも適当に水をやり、適当に日に当て、適当に肥料をばらまき、あとは放置しておくと、それぞれの「体癖」のようなものにしたがって、それぞれいちばん「気持ちのいい生き方」を見つけるようになる。
私は原理的に教育というのはそういうものだと考えている。
しかるに日本の教育はそういうものではない。
日本の教育の最優先の目的は「子どもたちを均質化すること」にあり、その目的のために、おそるべき量の時間と金とエネルギーが、この「均質化」事業のために投じられている。
「みんなと同じであること最優先に配慮し、みんなと違うことを心から恐怖する子ども」を作り出すシステムを徹底的に精緻化高度化してきた長年の努力の成果が今日のこの「世界一勉強しない子どもたち」なのである。
だからこれを教育制度の「失敗」ととらえるのはまちがいである、と申し上げているのである。
これは「全国民を均質化したい」という近代日本の揺るぎなき志向の最大の成果なのである。拍手をもって迎える人がいないのが不思議なくらいである。
国民の均質化・知性徳性身体能力イデオロギー価値観の均質化は明治国家の最大目標であった。その基本方針は以後130年揺らいだことがない。
システムがみごとに機能した結果、こうなったのである。
だから、これはシステムの「破綻」ではなく、システムの「大成功」なのである。
問題があるとすれば、「成功しすぎた」ということである。

いくら子どもを均質的にするシステムを作っても、必ずそこから脱落したり逃亡したりするものがいる。システムというのは、そういうふうに「うまくゆかない」ものである。
そして、その少数の「はぐれもの」をある程度ゆるやかに包み込むことによって、システムのアウトプットはむしろ最大化する、というのが人類の経験が教えていることである。
しかるに日本の教育システムは、あまりに「うまくゆきすぎた」ために、システムからドロップアウトするものは網羅的に「排除」されて、病気になったり引きこもったり自殺したりて、文字通り「姿を消し」、彼らがシステムの活性化に関与する機会がなくなってしまった。
それが今日の停滞の原因であると私は考えている。
これは教育システムの失敗なのではなく、成功しすぎなのであるから、もしこれに対処を講ずるのだとしたら、システムを「よくする」のではなく、そこにもっとバグやノイズを注入してシステムの効率を「下げる」ことを考えた方がいい。私はそう思う。
最悪なのは、(おそらく文部科学省や教育学者や朝日の記者が考えているように)全国一斉一律に「勉強する子ども」はどうやったら作り出せるかの「模範解答」を処方しようとすることである。
現に、ある心理学者は「子どもというのは、勉強させるような負の圧力をかけないとぜったいに勉強しないものであるから、強制したほうがよいのだ」というような意見を具申している。おそらくこれに唱和する人も少なくないだろう。
まさに教育システムを「さらに効率化させる」ことで危機を回避しようとするこの発想そのものが、日本の教育システムをさらに悪化させる他ないということにこの人々は気づかないのである。
「ゆとり教育」も「スパルタ教育」も、「愛国教育」も「民主教育」も、「教育というのは、全級一斉に、ある仕方で効率的に子どもを方向づけするものである」という了解においては双生児のように似ている。
そういうことを唱道する人間には「全級一斉」教育というものについての疑念がひとかけらもない。
「全級一斉で何かを教える」ということが教育の形態としては、きわめて特殊なものであり、「大衆社会」の出現後(すなわちニーチェとオルテガとハイデガーが口をきわめて罵倒した「均質的な人間たち」の支配の時代)のものにすぎない、という平明な歴史観が彼らには欠如している。
いまの問題を「システムの失敗」ととらえるなら、当然、その処方箋は、システムの点検整備、管理の徹底、夾雑物の排除、誤差の修正、異論の排除・・・という方向に向かうだろう。
そして、官民一体産学協同挙国一致の同意に基づいて史上最強の「完璧な教育システム」が創出されることを彼らは夢見ているのである。

そんなことをしてもよいことは何もないよ、と私は申し上げたい。
そんなことをしたら、ますますいまの教育が成功してしまうではないか。
「こういうのを止めよう」と思うなら、「こういうの」を作り出してきた「やり方」そのものを懐疑しなければならない。
同じやり方で繰り返す限り、出てくるのは「こういうの」だけである。

「昔の子どもはもっと勉強した。あの時代に戻そう」という説を唱える人がいる。
それほど戻したいのなら、別に戻してもいいけれど、やり方は一つしかない。
非常に簡単だから、たぶんそれを採用することを主張するひとがいずれ出てくると思うけれど。
それは勉強しない子どもに回復不能の傷を与えるということだ。
いちばん簡単なのは、ある学年から、勉強できない最低ラインの子どもたちを「組織的に排除し、みんなでいじめる」という教育方針を採ることである。
クラスで下位5%の子どもは胸に「黄色いダビデの星」をつけた「賤民」に類別し、ほかの「市民」たちと差別待遇する。(暖冷房のない教室をあてがうとか、朝礼のときに、一番最後まで校庭に立たせるとか)
子どもたちは必死で勉強するであろうし、親だって額に青筋立てて勉強させるであろう。
むろん学力はぐいぐい上がる。
だって、日本人にとって何より大切なのは「みんなと同じであること」だからである。
「マークされること」、「群から抜けること」を日本人は怖れる。ほとんど存在論的に怖れる。
群から離れることを恐怖する教育を徹底してきたおかげで、上から下まで、老若男女全員がそういう人間になったのである。
よく私たちの上の世代のひとびとが、「私らが学生のころは、みんな西田幾多郎の『善の研究』や三木清の『哲学ノード』や阿部次郎の『三太郎の日記』を読んだもんだ。それにくらべていまどきの若いもんは本を読まん。困ったものだ」というのを聞く。
この慨嘆おじさんたちは自分たちが「いまどきの若いもん」とそのエートスにおいてまったく同一であるということに気づいていない。
おじさんも「自分のとなりにいるやつ」と同じ本を読んでいないと大勢から脱落しそうで怖いという点において、今どきの若者とまったく同一の思考の生理に律されていたということに気づいていない。
「成員が均質的であることを望む」という点において、日本のシステムは上から下まで中央から末端まで、すべて「均質的」である。
15歳の子どもたちが一日25分しか勉強しないのは、30年前の15歳の子どもたちが一日2時間勉強したのと、同じ理由である。
みんながそうしているからである。
みんなと同じじゃないと怖いからである。
みんなが塾にゆくなら、自分も行く。みんなが勉強して大学にゆくなら、自分もゆく。みんなが欲しいものは、自分も欲しい。
そういう社会なんだから、みんなが勉強しないなら、自分もしない。みんなが欲しがらないものは、自分も欲しくない、というふうになるのはあったり前田のクラッカーである。
そういう骨の髄まで他者志向の子どもたちを日本社会は作り出してきた。
「そういう人間」を「みんなで」一生懸命に作り出そうとして作り出してきたのであるから誰に対してであれ、いまさら文句を言うのは筋違いというものである。

そういう子どもをこれ以上量産するのを止めたいということを本気で考えている人間がいるなら、その人はまず自分の子どもが「みんなと同じでいなければ、生きていけないのではないか」という恐怖を感じずに生きて行けるように、ただ一人でも「均質化の圧力」に抗して私が子の独自性を愛し、育み、守る、というところから始める他ないだろう。
「世間」のことはどうでもよろしい。
「世間」は「ほっとく」というところから始めないと始まらない。
親や教育者自身が、「みんなと同じであること」にはたいした意味がない、ということを身を以て子どもに示すしかない。(もちろん「たいした意味がない」だけであって「まったく意味がない」わけではない。若い人はそのへんを勘違いしないようにね)
「全級一斉に個性を開花させよう」とか「均質化の圧力にみんなで抵抗しましょう」というような主張をして、「ねえ、みなさんもそう思いますよね? じゃ、みなさんご一緒に教育を改革して、個性豊かな子どもを作りましょう!」というような発想そのものが「日本的システム」の再生産にすぎないのだということに日本のメディアはいつ気づくのだろうか。
たぶん死ぬまで気づかないだろうな。