芦屋の合気道のお稽古場がなんだかずいぶんにぎやかになってきた。
地元の少年少女たち(これはかなぴょんのお弟子さんたち)に加えて、本日から「ジャック」の橘さんと「ステーキハウス国分」の国分さんも入門。大東流をお稽古していた方も先週から入ってきた。気錬会OBのぴーちゃんに、大阪教育大の合気道部の諸君もいるから、だんだんかつての「自由が丘道場」みたいなわいわいした感じになってきた。
こういうのは好きだ。
ウチダは均質的なものと教条的なものが嫌いである。
そういうことをいうと、「ああ、ウチダさんは文化的多元主義者なんですね」というような括り方をする人がいる。
勘違いしてもらっては困る。
私はそもそも「・・・主義」というのが大嫌いなのである。
たしかに私は均質的なものと教条的なものが大嫌いである。
だが、「均質的なものと教条的なものが嫌い主義」というようなかたちで私の主張を「教条」化し、その教条に同意する「均質的な人々」を集めて、均質的集団を作ることはもっと嫌いなのである。
私を「レヴィナス主義者」であるというふうに思い込んで、「なぜ、ウチダはレヴィナス主義者なのに、他者との対話に開かれず、平気でひとのことを『バカ』などと罵って、応答責任を果たさないのか」と詰問したりする人がいるが、私は「レヴィナス主義者」であるなどと名乗ったことはない。
固定化された主義に殉じるというようなことは、レヴィナス老師がもっとも嫌ったことであり、私はその点において老師の弟子なのである。
「いかなる主義も立てない」ということがレヴィナス老師の示した「他者への回路」である。
相手が賢者であれ阿呆であれ、等しく胸襟を開いて受け容れねばならぬというようなことを言う人間は、その段階ですでにあたまごりごりの「教条の人」である。
レディメイドの教条を立てて他者に向き合う人間は、すでにして他者に向かって自分を閉じているということにさえ気づかない人間は「エゴサントリックな人間」であるのではなく、ただの「バカ」である。
私は主義としてバカを相手にしない。
しかるに、私は何事かを「主義にする」ということが嫌いなので、気が向くと、念入りにバカの相手をすることもある。
そういうどっちつかずでは困る、どっちかに片づけろ、と言う人がいる。
いやです。
いかなる論件についても、「すべからく・・・すべし」というような定見をウチダは持たない。
すべてその場の気分で決める。
そして、「すべてその場の気分で決める」という決め方が教条化することも嫌いなので、「その場の気分で決める」というスタイルをとるかとらないかも「その場の気分」で決めるのである。
というような生き方をすべからく人々は規範としてすべきである、というようなことは、だから言うはずもないのであるが、ときどき平気で言うこともある。
何しろ定見がないから。
(2002-11-16 00:00)