11月14日

2002-11-14 jeudi

上野千鶴子さんからお葉書を頂く。
なぜか『女は何を欲望するか』のお礼状である。
私はもちろんフェミニズムの悪口を書いた本の献本リストに上野千鶴子の名前を載せるほど命知らずではない。
径書房のO庭くんが「気を利かせた」のかもしれない。
「ハブとマングースが戦ったらどうなるか」というような種類の興味を人間はなかなか自制することができないものである。
本を読んで上野千鶴子が「むかっ」となって、あちこちのメディアでこの本を批判的に論及すれば、出版社的にはたいへんにありがたい展開である。
「上野千鶴子をそれほど怒らせる本であれば、これはぜひ読まねば」という人は日本にゴマンといるからだ。
それにしても、とウチダは思う。
私もずいぶん酷いことを書いたけれど、考えてみると、上野千鶴子というひとがいま受けている「敵意」の風圧というのはすさまじいものであろう。
経験的に言って、敵意というのは、「生き霊」と同じで、一定量を超えると、ある種の物理的実体を持つようになる。
「邪眼」が人を傷つけるように、敵意は、それが自分に向けられていると気づいていない人間にさえ、突き刺さり、その生命力を少しずつ殺いでゆく。
あれだけの敵意にいまなお耐えられるということを説明できる理由を私は二つしか思いつかない。

一つは上野千鶴子がアクマのようにタフな人間であるということ。
一つは「上野千鶴子」というのが、彼女が作り出したヴァーチャル・キャラクターであり、プライヴェートのご本人は別のキャラクターを温存していて、敵意がダイレクトに刺さるのをぎりぎりのところで回避しているということ。

何となく可能性としては後の方がありそうな気がする。
どちらの場合にしても、ウチダはこれ以上のフェミニズムへの敵意の備給をすることには、気が進まなくなった。
『ためらいの倫理学』にも書いたように、私は自分が女性であれば、(そしてフェミニストであれば)、上野の理説を支持しただろうと思っている。
いろいろ問題はあるにせよ、最優先の課題である「社会的・文化的リソースの性間での公平な分配」ということについては彼女はたしかに大きな貢献を果たしたし、「女性である私」はそれによって恩恵をこうむっている可能性が少なくないからだ。
立場が違えば「味方」だと思ったはずの人間を、立場上攻撃するというのは、あまり気分のよいことではない。

こういうふうに考えるようになったのは、ひとつには私がフェミニズムの悪口を書くと、「いやー、爽快でした。胸のつかえがおりました」というリアクションをしてくる人が想像よりはるかに多かったからである。
私は自分の意見は少数意見であろうと思って書いていた。
「ドミナントなイデオロギー」に対して少数意見の立場から、「そこまでおっしゃるのは、いかがなものか」と申し上げたのであって、まさかフェミニズムがこれほど多数の人々から蛇蠍のごとく嫌われているイデオロギーであるとは知らなかった。
もしかすると、フェミニズムというのは、実はすごく支持者の少ない、マイナーで脆弱なイデオロギー的立場なのかもしれない。
ウチダは子どものころから、「落ち目の人には親切」で、「弱いものには味方する」ことをとりあえずの信条としている。(『月光仮面』で幼児的正義感を涵養された世代なので)
それに、賛同する人が「たくさん」いると、私は自分の書いていることに対してさえ疑念を抱くような猜疑心の強い人間である。
私のフェミニズム批判は、(わかりにくいかもしれないけれど)いくぶんかの「敬意」を帯同している。
その「敬意」の部分を読み飛ばして、「いやー、爽快でした」と言われると、私は困る。
私がマスメディアではこの先もう時評的な発言しないと宣言しているのは、そういう「ニュアンス」がマスメディア経由ではなかなか伝わらない、ということがあるからだ。
あの本の「まえがき」に記したように、たぶんこれから先、私はもうフェミニズムの「悪口」は書かないと思う。
書きたいことは書いた。
あとは、フェミニズムの「遺産」のうちの「善きもの」を敵意の怒濤から守ることの方が優先順位の高い仕事のような気がしてきた。

『ため倫』で高橋哲哉さんのことを批判したときも、私は「言っていることは正論だけど、言い方がいまいち」という「限定的批判」にとどめたつもりだったけれど、「全否定」として読んだ読者が少なくなかった。
でも、それは私の本意ではない。
あの中で私が書いた「高橋哲哉の言っていることを私は原則的に支持する」という文言は一種の「論争的な修辞」だと取られた。
でも、それは違う。
私が「支持する」というのは、「支持する」ということだ。
全面的には支持しないが、原則的には支持する、という立場の取り方があるということが私たちの社会ではなかなか理解されない。
高橋哲哉を批判したらしいというだけで「なんだ、ウチダは右翼なのか」と簡単にくくってし、それで済ませる人がいる。
知的負荷のすくない分類法だから、ものを考えるのが億劫という人がそういうカテゴライズを採用するのは仕方がない。でもいやしくも、学術情報を発信しているつもりの人が、そういう雑な(血液型人間類型学にも劣る-あれは少なくとも四通りに人間を分類しているからね)バカ分類に安住することは許されないとウチダは思う。
私が要求しているのは、「曖昧な立場にも市民権を」ということである。
「そのような立場」をとりたいという人間がいるんだから、そのような立場を認めてほしいという、ただそれ「だけ」のために私は書いている。
そういう私の考え方を理解してくれるひとは、ほんとうに少ない。ほんとうに、泣けてくるほど少ない。

ためらいの倫理学