11月10日

2002-11-10 dimanche

日曜の朝刊をひろげて「ぎくり」とした。
一面下段の書籍広告にこんなのがあったからである。

「早稲田の『今』が分かるスペシャルマガジン登場!!/ だから早稲田はトクなんです。/話題の講義に潜入リポート/鴻上尚史客員教授の演劇ワークショップ/小泉首相も講義した! 豪華ゲストが話題の大隈塾/イマドキ早大生の日常に密着!/写真でつづる早大生日記/法科大学院、スポーツ科学部、国際教養学部・・・注目集める最新の動きをリポート!・・・・」

という具合に続いている。
版元を見ると「日経ホーム出版社」とある。しかし、まさか民間の一出版社がわざわざ早稲田の宣伝をするはずがないから、これはおそらく早稲田の公式パブリシティなのだろうと思う。
だが、これがもし大学主導のパブリシティなら、早稲田も末期症状と言わねばならない。
誤解してはもらいたくないが、ウチダは早稲田大学が好きである。
受験のときも、私立は早稲田の法学部と政経学部だけしか受けなかったし、そのあとも長く早稲田のユダヤ研の特別研究員をしていたし、ラグビーは藤原優以来の早稲田びいきだし、うちのお兄ちゃんも師匠の多田先生も早稲田だし、同門の早稲田大学合気道会とは仲良しである。
その上で、きっぱりと「これでは早稲田も終わりだ」と告げねばならぬ。
このパブリシティはあきらかに私たちが大学教育を再建しようとしている方向とは「逆」を向いているからである。

大学教育の再建は、「イマドキの受験生」の学力と知力のリアルかつクールな査定から始まらなければならない。
早稲田は「イマドキの受験生はバカだ」という査定を採用した。
この査定そのものは間違っていない。
「バカ」といってはあんまりだが、「イマドキの受験生」の教養は限りなくゼロに近く、学力は半世紀前の中学三年生程度である、というのは大学教員予備校関係者衆目の一致するところである。
しかし、その査定をふまえて、どういう大学生存戦略を立てるかということになると、私と早稲田のパブリシティ担当者では考え方がまるで違う。

私見によれば、受験生に「どの大学を選ぶべきかを熟考させること」はすでに大学の教育的機能の第一歩である。
大学広報は、「本学はこれこれこのような教育を行い、このような学生を送り出したいと願っている。みなさんはそれについてどう思うか」ということを天下に問うものである。
それがかなり幻想的なものであれ、ひとつのモデルを指し示すことは、すでにして「教育活動」の始まりである、と私は思う。
実際に受験しなくても、そのようなパブリシティを一読して、「なるほど、この大学はこのような教育理念をもつのであるか。はたしてこの理念はどのような人間を作りだし、どのような社会を理想と考えた上で策定されたのだろうか。私はここで想定されているモデルに共感できるだろうか」というふうに問いが深められるなら、総じて、「私は大学に何を求めて進学しようとしているのか?」という問いを受験生が自分に向ける機会を提供できるのであれば、「大学のパブリシティ」はすでに教育的に機能していることになる。

しかるに、早稲田のこの広告は広告屋のアオリに乗って、「バカをおだてて商品を買わせる」戦略を採用している。
この「スペシャル・マガジン」の広告文面に横溢するのは、誰が見ても「バカな受験生はこういうコマーシャル乗りのキャッチに簡単にひっかかるんだよな、バカだから」という受験生を「なめた」姿勢である。
このような姿勢がどのように教育的に機能すると思っておられるのか。ウチダは早稲田大学の要路の方にそれをお聞きしたいと思う。
それは独り早稲田大学の延命にとってはあるいは短期的には有意な選択であるのかもしれない。だが、日本の将来を考えればいやしくも高等教育機関が採用してはならないものである。
イマドキの受験生はたしかにこのパブリシティにほいほいひっかかるほどバカかも知れない。しかし、ビジネス優先で、大学人がその知的判断力を「見下している」受験生を迎え入れ続けていたら、その大学はもう教育機関としては「終わり」である。
人は、自分を「見下している」人間から何か「善きもの」を教わることはできない。
いま現在の学力知力がいくら低くても、学生の知的ポテンシャルの開花に有り金を賭けることのできる教育機関だけが、教育的に機能する、とウチダは信じている。
教える側が教わる側の知的ポテンシャルに対する期待と敬意を失ったら、教育はもう立ち行かない。
だからむしろ、私たちが若い世代において涵養すべきなのは、こういう愚民化的パブリシティを採用するような大学には「絶対行きたくない」と感じる知的センサーではないのか。

イマドキの受験生はたしかに教養はなく、学力も驚異的に低い。(中学三年までの学習内容を完全に理解している大学生はほとんどいない)
だから、それに対応して教育プログラムを下方修正することは避けがたい。
しかし、それは大学を高校「並み」にするということではないはずだ。
だって、これまでの大学の教育的機能は依然として大学が担わなければならないからだ。それを代替してくれる教育機関はいまのところまだ存在しない。
である以上、これからしばらくの期間、大学は四年間で「中等教育と高等教育」を同時に行うという、空前絶後前代未聞の教育機関としての歴史的使命を(願わくば暫定的に)担ってゆかなければならないのである。
私学経営に逆風が吹き荒れているおりもおり、明日の日本の知的インフラを整備するために教育機関としてこれまでの二倍の仕事をしなければならないという、とんでもない試練のうちに日本の大学はある。
私たちには模倣すべきモデルがなく、にもかかわらず、なしとげなければならない仕事は山積している。
明治以来、日本の大学がこれほどまでにおのれの社会的機能について熟慮しなければならない時期、日本の大学の歴史的使命がこれほどまでに重い時代はなかったと私は思う。
そういうときにこういうパブリシティを見ると、ウチダは足元ががらがら崩れるような虚脱感を感じてしまうのである。

目を覚ませ、早稲田。