11月8日

2002-11-08 vendredi

今朝の朝日新聞に興味深い記事が出ていた。
「16歳の家出少女が、出会い系サイトを利用したワルモノにダマされて、売春を強要されて一日六人ノルマで一年間に約800人を相手に売春をさせられていた」という記事である。
そのどこに興味を覚えたかというと、それによって得られたのが「約1200万円」だったちというところである。

1万5千円なんだ。

これがおそらく当今の「相場」なのであろう。
ウチダはこういうことには疎い人間であるが、たしか数年前は「援交」の相場は2万円とものの本に書いてあったかに記憶している。
だとすると、知らないあいだに25%の価格切り下げがなされていたことになる。
まあ、マクドのハンバーガーが59円の時代だから、デフレの趨勢からしてこれが適正な価格設定なのかもしれない。
もし売春価格が下落しているとするならば、その理由は一に「消費者の消費意欲の減退」であろうが、他の理由としては「供給の過剰」もあげられるのではないかとウチダは推察する。
上野千鶴子が先般より「性の自己決定・売春の自由化」を督励し、それに対して私が「そういうことはあんまりしないほうがいいと思うけど・・・」と弱々しく抗議したが、世間から一顧だにされなかったのはまだ記憶に新しい。
あるいは上野たちの督励が奏功して、大量の高校生売春婦が市場に参入することになり、結果としてこの低価格が実現したのかもしれない。だとしたら、「消費者サイド」としては「フェミニストさまさま」であろう。

フェミニストへの悪口全開の『女性は何を欲望するか?』は来週の金曜あたりから書店に並ぶけれど、試し刷りを頂いたら、あとから書き足した「解題」が印刷されていないことに気がついた。(再校のときは気が急いていたせいで、ブロック一つが欠落していることに気がつかなかった)
「解題」がないので、いったいこれらの論考はどういう経緯で書かれたものか、初出はどこか、ということが分からない。
重版からは直すけれど、初版はこのまま「解題ぬき」での出版となる。
姦淫聖書』みたいなものだと考えて、「お、これはレアだ」と収集してくれる愛書家がいるとよいのだが。
とりあえず、ホームページに「解題」を掲載しておきますので、この部分をコピー、プリントして、本の最後に貼り付けて置いて下さい。

解題

 本書には私がこれまでにフェミニズムについて書いた二篇の論考が収録されている。
 「フェミニスト映画論」と題された第二章はこれまでにずいぶんあちこちで「使い回し」てきた原稿である。原型は神戸女学院大学女性学インスティチュート刊行の『女性学評論』の1996年、1998年号に掲載された二本の論文(「エイリアン・フェミニズム」、「ジェンダー・ハイブリッド・モンスター」)である。その後、映画記号論の部分だけを取り出したショート・ヴァージョンを『映画は死んだ』(松下正己のとの共著、いなほ書房、1999年)に、さらに短いヴァージョンを記号学的方法の実践例として『現代思想のパフォーマンス』(難波江和英との共著、松柏社、2000年)に収録した。
 つまり、オリジナルから数えて今回が四回目の「おつとめ」ということになる。
 一つネタを四回使い回すというのも、なんとも芸のないことではあるが、オリジナルは「読んでくれる人は五人」といわれる紀要論文であり、ショート・ヴァージョンの『映画は死んだ』は部数わずかな自費出版物。『現代思想のパフォーマンス』のショート・ショート・ヴァージョンではフェミニズム関係の記述は大幅にカットされた。だから、「フェミニズムと物語」ということに焦点化したオリジナル論文が全文再録されたのは、実はこれがはじめてなのである。「これはもう前に読んだぞ」とお怒りの読者も一部におられるかと思うけれど、同一のテクストをいろいろなヴァージョンに改作するということについては古賀政男や村上春樹といった偉大な先達の例もあることだし、拝して読者諸氏のご海容を懇請する次第である。

 第一章の「フェミニズム言語論」の方は書き下ろしである。
 大学で「女性学」という連続講義を担当したとき、「女性として語る」というテーマで90分の講義三回分のノートを作った。この機会に『レヴィナスと愛の現象学』で触れたフェミニズム言語論についてもう少し考察をすすめてみようと思ったのである。
 フランスや英米ではフェミニズムの言語論や批評理論はたしかに効果的な学術的ツールであるが、それをそのまま日本語や日本文学に適用することにはややむりがあるのではないかと私は思っている。
 理由の一つは日本語では「言語は性化されている」ということは、べつに学者に教えられなくても、誰もが熟知しているからである。日本語には「男性語」「女性語」という区別があり、男女それぞれが性的に特化された言語を有している。そういう言語的風土で「女性にのみ特化した語法を奪還せよ」という主張が根づくということは、どう考えてもありえそうもないように私には思える。
 もう一つの理由は、「女性は男性として読み、男性として書くことを制度的に強制されている」とフェミニスト批評理論は主張するが、森鴎外や内田百間や深沢七郎や小田嶋隆のように書く女性作家というものを私はどうしてもうまく想像することができないのである。「女性が制度的に男性として書かされた文章」というがどういうものなのか、実例を見せていただければ得心できるのだが、誰も「はい、これだよ」と言って見せてくれない。私は経験主義者なので、「現物」を見せて貰わないと、どんな話もなかなか信用することができないのである。
 この論文の方は『女性学評論』の2002年号に寄稿する予定であったのだが、書いているうちに規定の枚数をはるかに越えてしまった。困じ果てて、ホームページに「引き取り手のない原稿がありますが、どなたか引き取っていただけませんか」という広告を出したら、径書房の大庭さんが引き取って下さったのである。おかげで、断章をあちこちで「使い回し」されていた映画論と、「引き取り手のない」言語論がここに「終の棲家」を得ることができた。フェミニズムのさまざまな理説について考え、意見を述べる機会を最初に提供してくれた神戸女学院大学女性学インスティチュートのご厚情と、「虎の尾を踏む」ような本の出版を快く引き受けて下さった径書房の大庭雄策さんの決断にこの場を借りて謝意を表したい。

 本書の二篇と『ためらいの倫理学』所収の「男性学」と、『映画の構造分析』(仮題・晶文社から刊行予定)所収の「アメリカン・ミソジニー」の計四篇の論文で、私のフェミニズム論「四部作」は完結する。これでだいたい書きたいことは書き尽くした。「まえがき」にも書いたように、私がフェミニズムについて書くのはこれが最後になるだろうと思う。だから、仮にこの本を読んで、きびしい反撃を試みられるフェミニストの方がおられても(当然いらっしゃると思うが)、私からの反批判はない、ということをあらかじめ申し上げておきたい。もちろん、これからも「ジェンダー」や「エロス」や「家族」については考え続けるだろうけれど、社会理論および学術的方法としてのフェミニズムに対する私の興味はもうほとんど失われてしまったからである。

というのが「解題」である。これだけ読むと「おお、なかなか面白そうな本ではないか、買って読もうかな」という気分になる方がいるかもしれないが、意外なことに実際に「なかなか面白い」本なのである。
フェミニストからは猛反撃が期待されるが、もちろん私はフェミニストと論争して勝てないことを熟知しているので、お約束通り、反論はしない。
私が反論の労を避けるのは、つねづね申し上げている通り、私は「フェミニズムは基本的には正しい思想だ」と思っているからである。
私が注文をつけているのは、その「過剰適用」についてである。
フェミニズムが「うまく」適用できる領域について(政治・経済的な領域の一部)私はフェミニズムを支持し、「うまく」適用できない場合(学術の領域-例えば私の専門である文学研究の領域)では自制を求めることにしている。
ウチダは「ケースバイケース・フェミニスト」なのである。
しかし、私を批判するフェミニストは私が彼女たちの「正しさ」を部分的に認めているという事実をなかなか認めてくれない。
私はこれまで主に学術分野におけるフェミニズムの過剰適用を論難しているのであるが、それに対する批判はおおかた「そのような主観的には学術的領域に限定された批判が、客観的には政治的なフェミニズムの貴重な達成を妨害し、父権制の延命を利することになっているのにお前は気づかないのか」というものである。
いや、気づいているのです。
そういう反論の構成は論争ではよく用いられる。
限定的な領域においては妥当する批判といえども、より広範な領域における「真理」の現実化を妨害する場合は、「偽」として退けられねばらない、という論法である。
かりにフェミニズム批評理論に瑕疵があるとしても、それをことさらに言あげすることで、政治的フェミニズムによる「善きもの」の実現を妨害するのであれば、その瑕疵を論じてはならないというのである。
これはなかなか反論するのがむずかしい。
革命的正義のために一人を殺すことが一万人を救うという状況はたしかにあるだろう。
その場合に「人を殺すのはどんな場合もいけない」というような倫理的原則を語る人間はは政治的準位では観想的ブルジョワとして吹き飛ばされてしまう。
私はあえてそれをやっているわけである。
「殺すことが必要だ」という現実的要請と、「殺すのはいけない」という一般的理念は「同時に」語られなければならないと、と私は考えている。
その二つの「真理」に引き裂かれて、政治的準位では殺人に同意し、倫理的準位では殺人に反対する、ということは人間の場合には起こりうる。
その矛盾を生きることが人間の「ふつうの」あり方であろうと私は思っている。
それを「ふらふらして気分が悪いからどっちかに片づけろ」といわれても困る。
私はフェミニズムは政治的には生産的な理論であるが、学術的にはあまり生産的な理論ではないと思っている。
それはラカン派の精神分析理論が学術的には生産的だが、政治理論としては(あまりにシニカルすぎて)使えないというのと図式的には似ている。
どのような理説も、それぞれの「最適ニッチ」にとどまる節度を持つといいね、ということを私は申し上げているのである。
でも、こういう考え方を理解してくれる人は少ない。
「君の言い分ももっともなところあるよね」と言っている人間と、「あなたのいうことはすべて間違っている」と言っている人間が論争して、前者に勝ち目のあろうはずがない。
だから、私は肩をすくめるだけで、反論をあきらめているのである。
でも、私はフェミニストからいくら罵倒されても、フェミニズムの政治的主張のいくつかについては、それを支持することを止めない。
ウチダはそういう点についてはほんとに頑固な人間なのである。