11月6日

2002-11-06 mercredi

西宮アクタでの「ジェンダー論」三回分が終わる。
やはり、知らない会場で、知らない学生さんたち相手の講義というのは、ちょっと緊張する。
三回目は、「女として語る」理論の致命的瑕疵についてしゃべる。

繰り返し述べているように、ジェンダー論というのは、やればやるほどジェンダー・ボーダーを強化する仕掛けになっている。
それも当然だ。
だって、ジェンダー論においては、「性中立的言明」というものはありえないからだ。

「女性にもっと社会的リソースの配分を」という主張は、男性がすれば「懺悔」であり、女性がすれば「権利請求」である。
「社会的リソースの配分は、このままでよい」という主張は、男性がすれば「既得権益の死守」であり、女性がすれば「『男性がしがみついている社会的リソースには価値がある』という前提そのものへの根底的批判」である。

「懺悔」と「権利請求」、「既得権益の死守」と「『既得権益』は幻想だという知見」はまったく別種の言明であるから、これを同列に扱うことはできない。
あるステートメントがなされるたびに、それを発語したのは「男か、女か」を問わずにはいられない、というのがジェンダー論の宿命である。
だって、男がいった場合と、女がいった場合では、同一のステートメントについての「評価」が(場合によっては「真偽」が)違うんだから、しかたがない。
さて、「同じ言動を男性がした場合と女性がした場合では、評価が異なる」ような二重標準を設定することを私は「性差別」と呼んでいる。

だって、そうでしょ?
「男の子は木登りするのは『勇敢』な行為なので称賛されるけれど、女の子が同じことをすると『おてんば』だから非難される」というようなのが「性差別」でしょ?

私は「性差別」には反対である。
男が言おうと、女が言おうと、言明の真偽は発話者の性別にかかわらないと私は考えている。
よい行為は誰がしようとよい行為であるし、誤った言明は誰がしようと誤っている。
そのような社会をこそ私は「ジェンダー・フリー社会」と呼びたいと思う。
そうであるからこそ、「ジェンダー・フリー社会」をめざすすべての人々は、まず最初に、自分が男性であるか女性であるかを明らかにしないで発言する、というところから始めたらいかがであろうか、ということを私はつねづねご提言しているのである。
しかるに、私の提言に応じるフェミニストはひとりもおられない。
まことに不思議なことであると言わねばならない。
あらゆる言動について、逐一「それをしたのは男か女か」をチェックし、男である場合と女である場合で、その評価を一変させることを習性とされている方々がこれから創出されようとしている社会が、どういうふうに「ジェンダー・フリー」になるのか、ウチダはうまく想像することができないのである。

ひとつたとえ話しをしよう。
ここに「学歴によるあらゆる社会的差別に反対する運動」というものがあったとする。(現にあるけど)
この運動では、その運動の参加者の学歴が、その人の運動にかかわる真摯さを計量する上で、非常に重要な指標になる。
それも当然。
「あ、オレいちおう東大だけど」という「学歴差別反対論者」と、「あ、中卒す」という「学歴差別反対論者」では、学歴による差別に反対する動機も違うし、その運動を通じて求めているものも失うものも違うからだ。
「東大卒」のひとの場合、彼の学歴差別反対論は「権利の放棄」であり、「中卒」のひとの場合は「権利の請求」である。
「東大卒」のひとは、これまでさんざん学歴の恩恵をこうむり、その利得を貪ってきたわけであるから、いまさら「学歴差別、よくないよ」などと言い出しても、その誠実さははなはだ疑わしいと言わねばならぬ。
他方、「中卒」のひとは学歴ではつらい思いをしてきたであろうし、その痛みは「東大卒」には想像も及ばない。
諸般の事情を鑑みて、この会においては、「オレ、いちおう東大だけど」くんの発言よりも、「あ、中卒す」くんの発言の方が重く配慮されねばならぬということが不文律となっている。
とういわけで、この「学歴によるすべての差別に反対するぞ」の会のメンバーは、全員がそれぞれ「どういう立場から反対している」のかが分かるように、またその行動の真摯さについて判定ができるように、胸に「最終学歴」を黒々としるしたワッペンをつけて会合に臨むことが義務づけられたのである。
おしまい。

変な話だね。
でも、ジェンダー・フリー論者というのは、まさにこの不思議な会のみなさんと同じことをしているように私には見える。

世界の見え方や記述の仕方が男女で違うのは事実である。
でも、男女で違うだけでなく、世界の見え方は、人間ひとりひとり全部違う。
性別以外にも、人種、国籍、ローカリティ、家庭環境、学歴、健康、宗教、政治イデオロギー、美意識、性的嗜癖・・・さまざまな要素がそのひとの「世界の見え方」に関与する。
まったく同じように世界を見ている人間というのは一人もいない。
それをある基準で「集団分け」するのは、社会のできごとを説明する上で有効だから、便宜的にやるだけのことである。
だからもちろん「男女」二種類で分けて、いろいろなことを説明するのは便利である。(私だってよくやっている)
けれど、私が「男女二種類」に分けて説明する「いろいろなこと」はエロスにかかわる事象「だけ」である。
それ以外のことについては、「男女ではものの見方が決定的に違う」というようなことは私は言わないように心がけている。
例えば、対イラク戦についての考え方については、日本人男性とアメリカ人男性のあいだよりも、アメリカ人男性とアメリカ人女性の方に多くの共通点があるだろう。
戦争の可否というような国民国家水準の出来事の判断においては「性差」よりも「国籍差」の方が優先的に配慮されるのはある意味当然のことだからだ。
私は「そういうこと」が他にもたくさんあるだろうと思う。
「物語」の解釈もまた、「性差による説明になじまない」領域のひとつである。
もちろん、イリガライやフェッタリーやフェルマンがしているように、性差に焦点化した作品解釈というのは「あり」である。
でも、それは「そういうのもありね」というだけのことである。
対イラク戦についてだって、「アメリカの女性も日本の女性も、女性はみんな戦争に反対してます」というようなアバウトなくくりかたをするのも「あり」であるのと同じように。
そういう世界の切り分け方もある。けれど、そうじゃない切り分け方もある。
セグメンテーションの作法として、どれが適切であるかは、やってみないと分からない。
性差で切り分けることがつねに適切であるわけではない。
ジェンダーを関与させてものごとの説明をすると「うまくゆく」場合と「あまりうまくゆかない」場合がある。「あまりうまくゆかない場合」は、ジェンダー論の枠組みでは論じない、という節度はたいせつだとウチダは思う。
しかし、この宥和的な姿勢を理解してくれるフェミニストはなかなかいない。

授業では、こんなことを言おうとしたけれど、時間がなかったので、ここに書いておくのである。

アクタの授業を終えてソッコーで御影に戻り、下川先生のところで能楽のお稽古。
このところお稽古の時間があまり取れなかったので、『船弁慶』の舞働のところでさんざん絞られる。謡は『頼政』。なんだかいきなり謡が難しくなる。
汗をかいて帰宅。
守さんにもらったおうどんと厚揚げを食べながら、『ガチンコ』を見る。
「梅宮―。プロテストに受かってくれ!」と両手をあわせて祈るが、祈り届かず。
ファイトクラブ四期生は後楽園ホールを去っていったのである。(もらい泣き)
しかし、あれだね。
このさき梅宮くんが街を歩いているとき、「あ、梅宮だ」と思った通行人の耳には「そのとき突然、梅宮が思いも寄らぬ行動に!」というナレーションがかぶってしまうんだろうね。