11月3日

2002-11-03 dimanche

大学祭演武会が無事に終わる。
こういう「恒例の行事」を毎年同じようにやる、というのがウチダは大好きである。
理由は前に書いたけれど、毎年「同じこと」を繰り返すのが、「時の移ろい」をもっとも深く実感する方法だからである。
毎年同じことをしているのに、そこに居合わせる人々の顔ぶれが変わる。新しく加わる人がおり、消えて行く人がいる。こどもは大人になり、大人はもっと大人になる。
今年の学祭演武会は、ヤベッチとカナピョンが現役として演武する最後の機会である。
来年になると、ヤベッチはアメリカへ旅立ち、カナピョンは東京へ去る。
六年間にわたって合気道部の屋台骨を支えてくれた「中興の祖」世代のうち二人がいなくなる。
これまでずっと「そこにいるのが当然」であった二人がいなくなる。そのあと合気道部がどんな感じになるのか、うまく想像できない。
でも、いまはまだ二人ともいるから、いるあいだは、気にせずわいわいと騒ぐ。気にすると泣けてくるからね。

先週自己評価委員会のことを書いたら、南米の一読者からコメントが届いた。
掲示板を見ている方はお読みになったと思うけれど、なかなか日本のメディアには報じられないブラジル大学事情がレポートされていたので、改めてホームページ紙上でご紹介したい。

ご参考になるかどうか...

2002年11月2日(土)06時26分 -mkoga

申し遅れましたが、ブラジルの州立大学で経済学の教官をしています。大学の人事考課や改革に関するこの国の現状について書いてみます。日本とはかなり事情が違うので、どこまでご参考になるかわかりませんが......。

学生に対する成績評価は「すごく厳しい」の一言に尽きます。本学の経済学科では、入学者50名に対する卒業可能者は多くて5、6人、数学科にいたっては「そういえば3年前にひとり卒業したな」と学科長が嘯いていました。なぜここまで厳しいのかというと、世間さま(労働市場)に不良品を供給するわけにはいかない、という「職人の論理」が教官に働くためだと思います。私もあまりの厳しさに最初は戸惑い、甘い評価を与えそうになりました。日本人としてのなにやら怪しいモノが意識に働いたのか、できの悪い教え子が「不憫」に思えたからです。しかし、今では「不出来な茶碗を叩き破る職人気質」のようなものが身につき、「ウチの大学の暖簾にかかわる」とまで思うようになりました。

学生に対する評価は、25%以上欠席すれば無条件にアウト、評価は試験のみ、試験内容は各教官の工夫にもよりますが、私はエコノミストとしての知的社会人に要求されると考えられる「知識」「問題解決能力」「論理的思考」「問題発見能力」をある程度測定できるように工夫し、試験を実施しています。知的社会人に要求される、と書いた理由は、自分が理想とする知的エリートを基準にしているということです。つまり、学生は最低でも教官の理想とする「出来映え」以下ではダメ、少なくとも私が学生だった頃「このくらい理解していたら良かったのにな」と思う以上の能力を持つように要求しています。この基準を70%に設定して、それをクリアしなければ、即、アウト。いわゆる「下駄を履かせる」という行為は「欠けた茶碗を売りに出す」ような職人として不名誉極まりない行為だと思っています。

評価される学生側も製品(日本では素材としてなのかもしれませんが、この国では製品としての品質が要求されます)として市場に出されることを前提に加工されている、と同時に、「知」の顧客でもあるわけですから、教官の工程を監視する必要があると考えました。そこで、着任早々、学生による評価法を提案してみたところ、最初は他の教官群にもの凄く嫌がられたものの、学生たちを焚き付けて(私は教官として貴方たちの知的能力を評価する権力を握っている。貴方たちは納税者として、また、「知の顧客」として私たちを評価する権力を握らねばならない。対等な立場を確立した上でお互いに権力を行使しよう。)なし崩し的に実施し、今ではすっかり定着しています。「教授法」「勤勉さ」「社会性」「興味の喚起」「専門知識」の各項目について教官たちを学生が10段階で評価し、毎学期末に総合ランキングを張り出しています。経済学科では今まで2人の教官が学生たちの実施した「人事考課」と学科教授会で独自にカウントする研究業績評価により「契約事項不履行につき」という理由を以て契約半ばで暇を出されました。本校では、正教授ではない限り、つまり準教授以下はすべて期限付き契約なのでこういうことも可能です。また、学科長、学部長、学長等管理職選挙についても学生には教官と同じウェイトで投票権があるため、経済学科では、能力がないと学生に評価された正教授が他学科の閑職に押し出され、30代の若い準教授が学科長をしています。つい先々月実施された学長・副学長選挙についても能力を見込まれた30代の準教授たちが圧倒的多数の票を獲得して選出されました。

加えて、第三者機関による公的評価が毎年実施されます。連邦政府の教育文化省からある程度独立している公的学術審査機関が学生の全国試験を実施しています。この試験結果と教官や学生の研究業績が点数化され、各大学の順位が付けられます。このランクを基にして各公立大学の財団(連邦立、州立等の公立大学はすべて独立行政法人です)に対する公的補助金配分が決まってくるため、弱小大学が淘汰されてしまうのでは、と危惧されています。しかし、予算と定員たっぷりの大学院で訓練された修了生たちが地方へ移動しているため、将来的にはそんなに酷い格差は生じないとの予測もあります。

さて、私立大学について。ブラジルでも近年、大学設置基準に関する規制緩和のおかげで雨後の筍の如く私立大学が乱立しました。興味深いのは、多くの私立大学において第4セメスターまで甘く進級させ、そのあとはなかなか進級させない、という戦略を採用していることです。半分まで授業料を払って通ったのだから、ドロップアウトする踏ん切りもつかずに進級できなくてもそのまま残る可能性が大である、つまり、授業料収入確保の確率が高くなるわけです。ついでに卒業生の質の確保もある程度可能になります。最初からあまり落第させると、さっさと退学したり比較的容易に単位取得可能な他の大学に移ってしまうことから、このような「経営戦略」を採るようになったと聞きました。しかし、あまり卒業させないと学生が集まらないので、一部の有名私立大を除き、公立大学の品質管理基準よりも少々甘いのが現状です。それでも品質管理を実施しなければ生き残ることはできません。卒業基準が甘すぎて学位授与機関としての認可を取り消された、つまりただの塾になってしまった私立大学もあります。

大学人の意識の違いに驚いてしまい、つい長々と書いてしまいました。すみません。

というのがブラジルにおける大学教育の「品質管理」事情である。
これが世界全体の実状であると断じるのは気が早すぎるだろうけれど、遠からず、このような品質管理システム(「学位」の実質の規格化、教員の学生・第三者機関による評価と業績の「点数化」、第三者機関による大学の評価と淘汰)が「グローバル・スタンダード」になることは避けがたい世の趨勢であるとウチダは思う。
教育の品質管理システムに反対している教員は、「あんなのはアメリカだけのことだ」というふうに考えているのかも知れないけれど、いずれ、「こんなのは日本だけだ」ということになると私は思う。
教育の規格化はすでに原理としては存在している。
しかし、日本の大学ではだれもそんなことを気にしていないというだけのことである。
例えば、文部科学省の定めた大学卒業資格は124単位であるが、この「単位」というのがどういう学習内容を指す「規格」であるか知っている教員が何人いるだろうか。
「単位」というくらいであるから、これは当然「世界標準規格」である。
だからこそ、日本の大学の学士号は外国の大学でも学士号として通用するのである。
「単位」の規格が日本と外国で違っていたらこんな「換算」はできない。

1単位とは何のことか。
1単位は「1週間の労働時間分すなわち45時間の学習」を指す規格である。
ただし大学の学生は、1時間の教室での授業に対して、1時間の予習、1時間の復習を行うものと「想定」されているので、(この点ですでに「規格」は水増しされている)1単位は教場における15時間の授業に同定されている。
本学では専門教育科目には、90分半期14週の授業で2単位が与えられている。
1・5時間 x 14週=21時間
15時間で1単位なら、21時間はどう計算しても1・4単位にしかならない。
これを2単位と「みなす」というのはすでに「水増し」である。14週授業しない教員もいるし、14週出席しない学生もいるので、さらなる「水増し」がなされる。
さらに、試験の代わりにレポートを代筆してもらったり、超低空飛行の試験の点数に「下駄を履かせて」合格を出しているケースもあるので、さらなる「水増し」がなされる。
つまり「単位」というのは世界標準規格であるのだが、日本の大学はローカルルールの弾力的運用によって、これをほとんど「標準」としては使えないものにして授与しているのである。

日本の大学教育の質は欧米諸国に比べてあきらかに低い。
それを学生がバカだからとか、教員の質が悪いからとかいう個人の責任の問題にすりかえてうやむやにしている人が多いが、たぶん最大の理由は、「規格通りに大学の単位認定をしていない」ことにある。
規格通りにやったら、ブラジルのように、大学生の90%は卒業できないだろう。
「世界標準規格」に照らして「大学生ではない」人々を、規格の方をまげて大学生として認定しているから、結果として「高等教育の品質が悪い」ということになる。
理屈としては簡単な話だ。
学生を「りこうにしろ」とか、教員は「襟をただせ」というような観念的な議論を語るよりさきに、数値的な語法で、「規格通りに教育をしよう」ということが語られるべきではないのか。
「教育サービスに関する品質規格の遵守」というところから高等教育の立て直しをはかるというのは、ここまで日本の大学教育が「低品質」になってしまった以上、たいへん「まっとう」なオプションであるとウチダは思う。
しかるに日本の大学教員の多くは依然として教育サービス規格の「厳密な適用」に消極的である。
反対するのは結構である。
だが、反対する以上は、その場合、どういうふうに高等教育を立て直し、「世界標準規格」との折り合わせるつもりなのか、その方途を示してもらわなければならない。
いまのようなお手盛りの教育規格で大学教育を続けて、単位を濫発し、卒業資格をばらまいておいた上で、なお「教育の世界標準規格」をクリアーし得るためには、いったいどういう「魔法」を使えばよいのであろうか。
たとえば、日本の「大学卒業資格」を諸外国の「高校卒業資格」と「みなす」というご提案をされるのであれば、私はそれは一考に値すると思う。
日本ローカル規格の「修士号」を世界規格の「学士号」に読み替える。
現在の日本の大学生の学力を見ると、この程度の査定は「適正」であろうかと思う。
私自身の見るところ、いまの平均的大学1年生は50年前の平均的高校一年生程度の学力しかない。(中には中学生程度のものもいる)
そのような学生に学士号を出し続けていれば、いずれ日本の大学教育についての国際的「信認」は失われるだろう。
そういう信用危機が迫っているということについて、わが国の大学教員の中にはあまり危機感がない。
それは何か起死回生の妙案が腹にあっての安心感ではなく、先のことを何も考えていないことがもたらす多幸感のようにウチダには見える。
繰り返し言うように、私自身は、教育のようなアナログな活動を厳密に数値化することは不可能だと考えている。
しかし、「できない」という原則論を掲げて「何もしない」でいることによって招来されるリスクの大きさを考えると、「とりあえず、やれるだけやってみよう」という現実的選択をせざるを得ないのである。
長い話になってすまない。

甲野善紀先生の『武術の新・人間学』(PHP文庫)が出た。
95年に単行本で出た本の文庫化である。
文庫化に際して、「文庫版あとがき」というものを甲野先生にお願いされたので、よろこんで寄稿させていただく。調子に乗って、甲野先生と私の「ご縁」をめぐって、ずいぶん長いものを書いてしまった。でもほんとうに「不思議なご縁」なのだ。くわしくは「あとがき」をご覧下さい。
この本は甲野先生のお得意の「座談」の口調で全編貫かれていて、たいへんに読みやすい。でも取り上げられている逸話の中にはなかなか一回読んだだけではその意味するところが解けない「奇妙な話」が多い。
甲野先生の座談にはこういう「奇妙な話」がよく出てくる。
聞いているときは「ふーん、そうなんですか」と聞き入っているのだが、あとあと考えると、「なんだか不思議な話」であって、いったいその話のどこにどんな教訓があるのか、考えれば考えるほど分からなくなる。
でも、気になるので、ずっと考え込んでしまう。
甲野先生にとって、先人の「逸話」は禅の「公案」に類するものなのかもしれない。