10月31日

2002-10-31 jeudi

大学自己評価委員会。
今日の議題はGPAの導入と、教員評価システムについて。
どちらも高等教育の「グローバリゼーション」趨向の中での、大学の教育研究活動の「品質管理」を規格化するための制度である。
ウチダはほんらいグローバリゼーションにも、教育のようなあいまいな活動を規格化することの意義についても懐疑的である。
しかし、世の中には「そんなことを言っても始まらない」場合というのがある。
高等教育の規格化とグローバル化は逆らいきれない趨勢である。
それだけ高等教育の質が(教員も学生も)「下がった」という事実がその前提にある。
ほうっておいてもアウトプットの品質が高いときに品質管理の必要を言い立てる人間はいない。
日本の大学が知性あふれるすばらしい学生を量産し、大学教員が堂々たる研究成果をあげて世人の崇敬を一身に集めているなら、誰も品質管理なんてことを言いだしはしない。
品質が下がっているからこそ、品質管理が必要となってきているのである。
学生のできも悪いが、教員のできも相当ひどい、というのが大学自己評価活動の「大前提」である。
そうはっきり言われると全国の大学教員のみなさんはさぞや不愉快であろうが、その否みがたい事実を前にしたところから自己評価は始まっている。
自己評価活動というのは、自分たちの大学でおこなわれている教育研究活動の「問題点」を洗い出し、それをどう改善するのかについて具体的な提言を行うことである。
しかし、なぜかそういうふうに考えている教員はあまり多くない。
多くの教員は、自分の教育研究活動の「問題点」の発見よりも、自分の「美点」をショウオフすることに熱心である。
それって、何か重大な勘違いをしていないだろうか?
私たちはいわば「堤防に空いた穴」を探している。
ほうっておくとそこから堤防が決壊するかもしれない将来的なリスクを発見するのが自己点検・自己評価活動である、というふうに私は考えている。
しかし、どうも教員のみなさんは「堤防の穴」の発見よりも、「穴はともかく、堤防の桜の木は美しい」とか「穴はともかく、堤防から見える富士山はすばらしい」というようなことを言い立てるほうにいそがしい。

ウチダは問題点を洗い出すための考課システム導入をご提案した。
それに対して、教員のみなさんのかなりの方が「問題点が表面化しないような考課システムに作り替えて欲しい」というご提言をされてきた。

あのー。それだと自己点検にならないんですけど。

教員のみなさまもたとえば自動車を車検に出すときに「点検リスト」(オイルの量は、とかVベルトのへたり具合はとか、タイヤのすり減り具合は)というようなものがあって、「問題点」の洗い出しをしていることはご存じであろう。
その場合に「問題点が表面化しないような点検リスト」を作ることはどういうメリットをもたらすのであろうか。
「タイヤがバーストしかけているけど、窓ガラスがきれいだから、問題なし」とか「オイルがなくなっているけれど、カーステレオの音がいいから、パス」というような点検をする整備工場にあなたは車を預けるだろうか?
私はあずけない。
そんなものを私は「点検」とは呼ばないからだ。
自己評価委員会は、うちの大学にはどんな問題点があるのか、個々の教員にはどんな問題点があるのかをリアルかつクールにチェックし、改善努力を要請するための委員会であるとウチダは考えている。
改善努力すべき点が徴候化しないような点検システムをつくることにいったい何の意味があるのか? 誰がそれによって利益を得ることになるのか?
ウチダにはよく分からない。