10月30日

2002-10-30 mercredi

東京から編集者があいついで来神。
おとといは柏書房の五十嵐さん。昨日は医学書院から鳥居さんと杉本さん。
五十嵐さんは「源平」から「ジャック・メイヨール」へご案内。
そこに意外や「極楽スキーの会」のM杉先生とI黒先生が登場。やあやあと歓談しているところへステーキハウス国分の国分シェフと「株屋の美女」も登場。
カウンターにずらりと知った顔が並んで、借り切り状態でわいわいと盛り上がる。
いつ行っても誰か知っているひとが止まり木にいて、世俗を離れた清談が出来るバーというのがあるのはよいものである。
村上春樹の初期の小説に出てくる「ジェイズ・バー」みたいな場所をひとつ知っている人間とひとつも知らない人間では、ストレスの逃がし方にずいぶん差がでるように思う。
放歌高吟痛飲して深更に及ぶ。

翌日は医学書院から「看護」についてのインタビュー。
私のような医療の門外漢にいったい「なにを聞くねん」と思うのだが、「シロート」の立場からのご意見を拝聴したいというたいそうご丁重なお申し出であるので、口から出任せに「インフォームド・コンセント」とか「患者の自立」とかいうアメリカ発の医療概念についての批判を展開する。

インタビューの準備のためにかなり多量の資料を事前に送っていただいたので、ひととおり、現在の「インフォームド・コンセント」関係の議論は一瞥したのであるが、「病人にそこまで要求するのは酷だろ」というのが私の率直な印象である。
なかには「賢い病人になろう」とか「自己決定し、自己責任をとる自立した患者になろう」というようなことを主張しているひとまでいる。
あのね、こっちは病人なんだけど。
病気になる人間というのは、本人の生き方には何の関係もない遺伝性疾患なんかは別として、基本的に「病気になりそうな生活」をしていながら、それがやめられないでずるずるきちゃって、ついに発症したという点からして、すでにあまり「賢い」とは言えないのである。
その上、病気になると人間というものはもうへろへろに取り乱したり、すっかり気持ちがゆるんだりしていて、すでに健常時の判断力を失っている。
そういう人間に自己決定とか自立とかを求めるのはいかがなものか。
これまでの医療はむしろこの「健常時の判断力を失ってへろへろになっている」心神耗弱状態に陥った患者が「先生、あとはもうお任せします」というように受動的な心理状態にあることを利用して、治療を進めて来た側面がある。
当然のことながら、患者の側に治療者に対する信頼がある場合とない場合では、同じ医療行為を行っても、治療効果はまったく違う。
身体を治すのは最終的には患者自身の気分である。
同じ治療をしても、「治りそうな気がする」患者は治りが早く、「治りそうもない気がする」患者は治りが遅い。
使えるリソースは総動員&結果オーライ、というのが医療の基本原則であるとウチダは思う。
薬物も使う、ハイテク器具も使う、鍼灸も、アロマセラピーも、アニマルセラピーも、音楽療法も、サプリメントも、民間療法も、おまじないも、加持祈祷も、お百度参りも、使えるリソースはすべて動員して治療に当たる、というのが原則である。
どれかが「当たって」治ればそれでよい。
経験的に言って、「この医者についていれば私は治りそうな気がする」という「思いこみ」はよく効く。
医師にある種の全能性の幻想を賦与することで、患者は「自分ひとりで自分の病という宿命と対峙しなければならない」という心理的な負荷をまぬかれることができる。
私は単純な人間なので、具合が悪くなって病院に行っても、医師に病名を診断されて、「よくある病気なんだよ、これは(なんだ、つまんねえ)」というふうな横着な対応をされると、なんだかぐっと気分が楽になって、半分くらい治った気になってしまう。
つまり「私の病気」というプライヴェートな事件が、病院に行き、カルテにデータが書き込まれ、診療券のカードなんか発行されて、「オフィシャルな出来事」に類別されると、「なんだかこの病気に私はもう責任がない」ような気分になって、肩の荷がおりてしまうのである。
このあとどれほど病状が悪化しても、それはその横着な医者のせいであって、私のせいではない。
そう思うと、すっかり気分がよくなる。
責任の「丸投げ」によるストレスの回避、これは医療の呪術的側面である。
このように従来、医療では、「治療者」に自分を委ねて、完全に受動的な状態になるという「主体性の放棄」を活用してきた。
医師が白衣をきているのも、大きな肘かけ椅子に腰掛けて、ドイツ語でカルテに書き物をしていて、丸椅子にすわって裸で震えている患者の方をなかなか見ようとしないのも、聴診器で「こちらには聞こえず、先方にだけ聞こえる私の身体情報」を摂取している「ふり」をしたりするのも、すべては「呪術的」なふるまいである。
「ああ、この治療者は私よりも上の視座に立つ人であり、私について私よりも多くを知っているのだ」というカフカ的勘違いを患者にさせることによって、治療効果を高めようという人類学的知恵があのような「大げさな芝居」を要請するのである。
だから「お医者さんごっこ」という遊びあれほどはやるのである。
「医者」というのは本質的に「医者役を演じている」者だということを、子供だって感知しているから簡単に「ごっこ」ができるのだ。
総じて、「魚屋さん」とか「お寿司やさん」というような「演劇性のまさった商行為」は「ごっこ」化されやすい。(現に「JRのみどりの窓口ごっこ」とか「TSUTAYA の店員ごっこ」というようなものを子どもはやらない。働く人間が「素」を出している職業は「ごっこ」化されにくいのである)
閑話休題。

「インフォームド・コンセント」理論は医師と患者を同等の人間とみなす。治療方針について話し合い、最終的な決断は患者が下す。決定を下し、リスクを取るのは患者である。
こういう発想は「自己決定」とか「主体性」とかいう概念が神話的オーラをはなつような文化圏からしか出てこない。
「自己決定権を獲得できるなら、そのためには命も惜しくない」というような倒錯した考え方が支配的である社会でのみ有用な概念である。
というのは、そういう特殊な信憑が支配している社会では、「医師が決定した適切な治療」より、「患者が自己決定した不適切な治療」の方が高い治療効果を上げるということが起こりうるからである。
「私は自己決定した」という事実が、患者に「自分の生きていることの確かさ、自分の存在の有用性、自分のアイデンティティ」を力強く保証し、その心理的効果を支えとして患者はぐいぐい治癒するということがアメリカなら起こるだろう。
きっとそういうことってある、と私は思う。
しかし、「そういうこと」が可能なのは、アメリカみたいな「自己決定すること・自己責任をとること」を最高の人間的美質とみなすような特殊な民族誌的奇習を有する社会においてのみである。
日本は「そういう社会」ではない。
日本はむしろ「医師の全能性についての呪術的信憑」という民族誌的奇習を最大限利用して医療が効果をあげてきた社会である。
そのへんのところをよくよく考えないで、すぐに「グローバリゼーション」とか言うのはいかがなものか
というようなことを延々2時間話す。
若い編集者たちは、私の暴論奇論に深くうなずいていたけれど、こんなものを記事にしちゃって、果たしてよろしいのであろうか。

前夜、「ジャック」で国分さんからよい神戸ビーフがはいりましたから、ぜひステーキハウスのほうにも来て下さいとお誘いをうけたので、夕方から神戸の近代美術館で「ゴッホ展」を見てから、その足で三宮へ。
さすが神戸ビーフ。
感動的なおいしさである。
ワインもうまい。
ガーリックライスも絶品。
鉄板で焼いた淡路島のタマネギをからし醤油でからめて食べる。
う、うまい。