10月24日

2002-10-24 jeudi

白川静+梅原猛『呪の思想』を読む。
礼も楽も詩も、その起源は「呪鎮」であるという白川説を読んでいるうちに、どうして最近の若い人たちにあれほど「ミュージシャン志望」が多いのか、なんとなく分かったような気がしてきた。
ロックは呪であるという説は何年か前に唱えたことがある。
『ウッドストック』のヴィデオで 10 Years after のアルヴィン・リーの神懸かり的なギタープレイを見ているうちに、不意に「あ、ギターは呪具か、あれは破邪顕正の弓弦の響きだったのか」ということが腑に落ちたのである。
ロックコンサートは宗教儀礼だ、アイドルは教祖だ、というようなことはもうとっくから社会学者が言っていることだから珍しい話ではないが、バンドブームというのは、言い換えると、若者たちが呪鎮の「受益者」たる「信徒」であることにあきたらず、みずから呪を行う「巫祝」になろうとしているということである、という事実については、まだ十分吟味されていないようである。
俳優志望、ダンサー志望の若者も多い。
これらも起源はすべて宗教的なものであり、その本義は「共同体をことほぎ、そこに災いをなすものを鎮めること」にある。
つまり、いまの若者たちにひろく見られる「エンターテインメント志向」は言い換えれば「原初的形態における呪の実践志向」である、ということになる。
なぜ、若者たちはみずからすすんで「呪」を行おうという気になったのであろうか。
私はそこに興味をひかれる。

白川静先生によると「詩」には「賦」というものとがある。(ほんとは六義と称して六つのカテゴリー分けがあるらしいけれど、それはさておき)
「賦」というのは「ことほぐ歌」である。それはわが目に見えるものを微に入り細を穿って描写する「国ほめ」の歌である。
目の前にある自然の風景をぐいぐいと読み込むというのは、別に写実的再生そのものを目的としているのではなく、それによって、そこに写生された風物を「祝」しているのである。
ユーミンの『中央フリーウェイ』なんかは「右に見える競馬場、左はビール工場」っていうふうに中央高速から見える景色が読み込まれてゆくし、相模線に乗って八王子から江ノ島のサーフショップまでゆく車窓の気色を歌ったのもある。立川あたりの米軍基地のランドリーゲイトの風景を歌い込んだのもあった。(たとえがふるくてすまぬ)
あれは「国ほめ」だったんだ。
サザンの『勝手にシンドバッド』の「江ノ島が見えてきた、オレの家も近い」というのも湘南風物を読み込んだ「賦」なんだろうな。(これもたとえがふるくてすまぬ)
もちろん詩には「賦」ばかりではなく、事物にふれて感興を綴る「興」という詩体もある。

いずれにせよ、今の若い人たちの歌う歌はべつに大上段にふりかぶった「反体制ソング」とか「革命歌」とか、そういうものではなく、彼らのなにげない日常生活や日々の感興を歌ったものであり、その限りでは、彼ら自身による彼らの日常の「聖化」のこころみであると言える。
そのささやかな日常を破壊しかねないものから、せめてそれだけは「守りたい」という思いが、彼らをして「巫祝」に向かわせるのではあるまいか。

若者の世界はもともと狭いものだが、いまの若者の世界はどんどん狭隘なものになっている。
狭い世界なら「呪」が届く。というより、ある程度以上広い世界では「呪」は効かない。

たぶん、これは21世紀の世界が「グローバル化」という全体的な趨勢と並行して、あらわな「部族化」が進行しつつあることの徴候のひとつであるような気がする。
「2ちゃんねる」なんかも、規模はでかいけれど、「貴船神社」とほとんど人類学的機能を同じくしている。
あそこで人々がやっているのは「電子版・子の刻参り」である。
私たちはどうやら新しい「巫祝の時代」に入り込んだようである。