久しぶりのまるオフ日曜日なので、たまった仕事を片づける。
まず女性学のノート作成。
後期は西北の「アクタ」(芥? いったいどういうネーミングなんだろう。ゴミ捨て場の跡地利用かなんかだったのかな)で西宮六大学の単位互換授業である。
フェミニズムの言語論を紹介してから論駁するという忙しいプログラムなので、とても90分三回では収まらないだろう。
フェミニズム批評理論の批判の前提となるバルトやラカンの理説を解説しているだけで終わってしまうかもしれない。
まあ、それはそれでも多くの学生さんにとっては耳新しい知識だろうから、無駄ではないと思うけど。
講義ノートを作るが、こういう作業はほんとうにパソコンの登場によって革命的に簡単になった。
これまで書いたペーパーのあちこちをカット&ペーストすればあっというまに一冊分できてしまう。
ひさしぶりにジュディス・フェッタリーやリュス・イリガライの文章を読み返したが、あらためて本当に頭の悪い人たちだと思う。
どうしてこれほど頭の悪い人間たちがある程度の知的威信をかちえているのか、ウチダにはうまく理解できない。
フェッタリーは「アメリカ文学は男の文学だ」というところからはじまって、アメリカ文学を女性読者が読むという経験は、男性的なものの見方(「よい女とは死んだ女である」)に自己同定することであると書いている。
フェッタリーがそう思うのは彼女の自由であるが、でもそれなら、アメリカの女性読者にとってベストの選択は「抵抗する読者」になることではなく、「アメリカ文学なんか読まない」ということではないのだろうか?
違うだろうか?
フェッタリーの理屈で言えば、例えば、北朝鮮文学(なんてものがあるかどうか知らないけど)が「金王朝の独裁支配を正当化するイデオロギー装置」である場合、そのような思想に同化されないためには、「これはヘンだ、これはプロパガンダだ」と必死に抵抗しながら読むべきである、ということになる。
でも、ほんとうにテクストに横溢するイデオロギーに毒されたくないのなら、どう考えても、いちばん適切な選択は「読まずに、まっすぐゴミ箱に棄てる」ということである。
私ならそうする。
あるいは通俗的なポルノグラフィーは「女性蔑視的な男性の性幻想が横溢している」。これは紛れもない事実である。
そのような有害な性幻想の悪影響をのがれたいと思うなら、とりあえず適切な対処法は、そんなものは読まない、ということである。読んでいる人がいたら、「やめなよ」と言うことである。そのへんに落ちていたらゴミ箱に棄てるということである。
だが、フェッタリーの理屈でいうと、「女性蔑視的な男性の性幻想が横溢しているポルノグラフィー」のイデオロギー的影響からのがれるためには、「その性幻想を批判しつつなめるように読みまくるべきだということになる。
「うんちはきたない」
その場合、「なぜ、うんちはこんなにきたなく、臭いのだろう」とうんちに鼻をつっこんだり、嗅いだり、なめたりすると、ますます気分が悪くなる。
フェッタリーが推奨しているのは、そういうことのように私には思える。
フェッタリーはアメリカ文学は有害なイデオロギー装置である。だからこそ、「なめるように読め」という。
これって、どこか倒錯していないだろうか?
この倒錯を説明することのできる理由を私は一つしか思いつかない。
それはすべての女性読者がアメリカ文学を読むのを止めたら、アメリカ文学者であるフェッタリーが失業するということである。
フロイトが教えてくれているように、私たちは構造的に自分の欲望を勘定に入れ忘れる。その点については、私だって同様であるから偉そうなことは言えない。
でもフェッタリーほどあからさまに自分の欲望を勘定に入れ忘れるケースはいささか珍しいのではなかろうか。
ノートがあっというまにできたので、(怒りながら仕事をするとなんでも捗る)次は『週刊文春』から頼まれた四回分のエッセイを書く。
これはJTの広告の中のエッセイで、「大人の愉悦」的なテーマで書いて下さいというもの。
どうもJTさんは「エルプリュスの夜会」でもそうだったけれど、その路線で迂回的に「喫煙文化の再評価」というふうに話をもっていきたいらしい。
禁煙運動家のS井先生が聞いたら、一発で「非国民」扱いされそうだが、さいわいS井先生は留学中なので、正義の鉄槌は回避できそうである。
700字の原稿で5並びという高額バイトである。
なんと割のよい仕事であろうか。
一字70円。
「そこで私は・・・」と書いたら、もう500円。
「そこで私はこう考えたのである。」でもう1050円。
ヨシオカくんがマクドでハンバーガーを1時間売りまくって得るバイト代を3秒で稼ぐことができる。
こういうのを「濡れ手で粟」という。
もちろん、こんなことをしていては、たちまち私の金銭感覚は狂ってしまう。
私が「メディアに書くのを止める」というのは、こういうデタラメな金銭感覚になじむと人間ろくなことにならないからである。
ろくなことにはならないが、とりあえず「どういうふうに」ろくなことにならないのかについては、身を以て人体実験を試みたくなるのもまた学者の「業」である。
というわけで、狂った金銭感覚がどのように私の心身を腐らせるのかを身を以て経験すべく、まなじりを決して、あらよっと1時間で四本のエッセイを書き上げる。
時給20万円。
ああ、いけない。
なんと罪深いことをしてしまったのだろう。
もうちょっとだけダメになったら、きっぱりとこういうヤクザな仕事からは足を洗い、また大根の値段に一喜一憂する健全な小市民に戻らねば。(何が「ねば」だか)
(2002-10-19 02:00)