10月19日

2002-10-19 samedi

合気道のお稽古にいったら、いつもよりたくさん来ている。
昨日の夕刊を見て、「おお、そうだ。たまにはウチダの顔も見に行こう」と思ったようである。部員のご家庭でも、親御さんが「あら、ウッチーが新聞に出てるわよ」と話題になったそうである。
新しく入会したいという方も来たし。
新聞に出ると、こういう「よいこと」もある。
男子がたくさん来たので、調子にのってばんばん稽古していたら、終わり頃にまた背筋が痛んできた。
よろよろと帰宅。熱いシャワーを浴びて昼寝をしてから、鍼へゆく。
合宿から帰ってから通い始めた阪急六甲の駅近くの鍼医。芳香四方に薫じ、「癒し系」音楽などもかかっているところでぷすぷすと鍼を打たれて、背中をほぐほぐしていただく。
筋肉の痛みがすうっと消えて行く。さすが中国四千年。

もう店じまいだと言うのに、今度は『中央公論』から連載書評の依頼が来る。
来年からもう仕事はしない旨を書き送り、丁重にお断りする。
いま締め切りのある原稿が月間数本。この年末はもっとふえる。
原稿を書くのは別に苦にならないが、その分、あきらかに眼に見えないところで「本業」を怠っている。
例えば、去年まで私はゼミ生たちのレポートのすべてに長い感想文を添付して返していた。それは私にとって、家で夜、お酒を呑みながらパソコンを叩く、とても愉しい時間だった。
その時間が今は取れない。その暇があったら、締め切りの迫った原稿を書かないといけないからだ。
だから、今年はゼミ生にきちんとした個人指導ができていない。
授業のためのノート作りのための時間もずいぶん短くなってしまった。十分な下調べができないまま教場に出かけるので、結果的に「その場で思いついたこと」をしゃべって盛り上げて・・・という「パフォーマンス技」で凌いでいる。
しかし、こういう「芸」だけで凌ぐスタイルだけでは、どこかにひずみが来る。
大学のさまざまな戦略的課題についても、ほんとうは職務上要請されている研究調査をすすめてゆかなければいけないのだが、オフの日は疲れて倒れているので、その種のシンポジウムや報告会への出席もままならない。提言のとりまとめもいつも時間ぎりぎりに殴り書きのようなものを出して済ませている。
いずれもいまはまだ破綻は表面化していないが、いまのような仕事の仕方を続けていれば、(あるいは今以上に「物書き」に時間を割いていたら)遠からず大学のメンバーとして周囲に迷惑をかけるような事態になることは火を見るより明らかである。
ウチダは給料取りであり、そうである以上、本務を最優先することは当然である。
そもそも私の本はそういう「当たり前のサラリーマンの常識」があまりに軽んじられている当今の風潮を嘆いたものである。
「ほんとうの自分らしさ」とか「クリエイティヴな生き方」とかいう薄っぺらな幻想を追いかけるのを止めて、きちんと地に足の着いた、自分の「分際」をわきまえた生き方をしましょうと提言している夫子ご自身が本業をさぼって浮かれていては話にならない。

メディアに名前が出ることを私が嫌うもう一つの理由は、それが不特定多数の人間の「敵意」を呼び寄せることにある。
メディア上で名を知る人について、私たちは勝手なイメージを作り上げ、ときには「仮想師」や「仮想友」に、ときには「仮想敵」に仕立て上げて、感情移入を行う。
そういう幻想を作り出すのは私たちの「業」のようなものだから、やめろというわけにはゆかない。私自身だって、これまでいろいろな思想家や作家について、勝手に「師」にまつりあげて拝んだり、一転して「敵」とみなして足蹴にしたり、そういうことを繰り返してきた。
しかし、勝手を申し上げるならば、自分はそういうことをしてきたくせに、自分自身がそのような幻想的な感情移入の対象になるのはいやなのである。
気持ちが悪いのである。
とくに「仮想敵」とみなされて、知らない人から幻想的な敵意を送られるのはすごく気分が悪い。
敵意というのはある種の物質的実体を持っている。
敵意のもたらすある種の「憎しみの波動」のようなものは、空中を飛来する小石の礫程度には「ターゲット」を破壊することができる。
見知らぬ他人からのものとはいえ、悪意や邪眼というものを侮ってはいけない。

物書き商売を始めたら、知らない人からいろいろなメッセージが送られてくるようになった。ほとんどは好意的なものだったが、中には敵意を含むものもある。
敵意にもいろいろな段階があるが、いちばん妄想的なものは「ウチダが私をつけ回して、あちこちで私の自己実現を妨害している」という『症例エメ』のような敵意である。
今のところそういうのは二三人しかいないが、潜在的にはもっといるはずだし、いまのようなペースで仕事をしてたら、これからもっと増えてくるだろう。
そんな悪意からわが身を守るために時間やエネルギーを割くのは純粋な消耗である。
だいたい、今だって、顔見知りの人間たちから送られてくる悪意や怨念への対応で手一杯なのである。(こちらは全面的に私の不徳のいたすところなので、言い訳できませんが)