10月18日

2002-10-18 vendredi

毎日新聞のインタビューがある。
今回のテーマは「変人畸人」。
ノーベル賞を、博士号をもたない民間の技術者である「変人」の田中さんが受賞したのを「変人宰相」が言祝ぐという、実にメディア向きな図像のせいで、おそらくはこのあと「変人を歓迎する風潮」というものが安直にメディアに横溢するのではないか、と危惧された毎日新聞の記者さんが、「変人」ウチダに、「こういう風潮、どう思います?」とお訊ねに来たのである。

私もいろいろなことの専門家として「ご意見拝聴」の皆さんをお迎えするのであるが、「変人として」意見を聞かれたのははじめてである。まったく人間というのはいろいろな分野の専門家になれるものである。
7月のエルプリュスの夜会は「煙草を吸う人間として」のご招待だったし、8月の『婦人公論』の取材は「『エースをねらえ!』の愛読者として」のインタビューだったし、先日の朝日新聞は「武道家として」の取材であった。「レヴィナス思想の専門家として」のお座敷も二つほどかかっているし、冬は鹿児島大学で「バカ映画解釈の専門家」として集中講義を担当することになっている。
そう考えてみると、この先私は「父子家庭における子育ての専門家として」、あるいは「口からでまかせをいくらでも言える技術の専門家として」、あるいは「1のインプットで5のアウトプットを産出する知的生産の技術の専門家として」などいろいろな切り口からの専門家に擬される可能性がある。
というわけで、謹んで「変人」として、「変人畸人論」を2時間ほど滔々と語る。

ウチダの論によれば、「変人」とは同時代のマジョリティからの偏差の関数であり、単に量的に「少数派」であるという数量的なことしか意味しない。
しかるに「畸人」とは、「古人」を範にとり、その学統、道統など「時間軸上」の系列のうちにわが身を位置づけ、同時代における自分のポジションというのを二次的なデータとしてしか顧慮しない人間のことである。
「畸人」は時間軸上においては、私淑する先賢と「いかに同一化するか」を課題として生きており、同時代人との差別化を主要な関心とする「変人」とは標準とするものが違う。
だから、「畸人」はときに「変人」であるが、「変人」必ずしも「畸人」ではない。
その意味では、私は「畸人」であって、厳密な意味での「変人」ではない。
「変人」は放っておいても生まれてくるが、「畸人」は継承すべき「道統」というものを措定しなければ生まれない。
私は多田宏先生とエマニュエル・レヴィナス先生を師として敬慕し、その道統を継承して次代に伝えることを生涯の課題としている。
さいわい多田先生とレヴィナス先生は、現在お二人ともに同世代のみなさんから、その卓越性に相応しい敬意を受けておられるので、私は畸人ではあるが、変人であるかどうかは私には分からない。(その判定は私の管轄ではない)
学校教育はその本旨からして「変人」を育成することはできないし、そもそも「変人を適正量育てる」ということは、ドミナントなシステムにおさまらないもの、という「変人」の定義に悖る。
そうではなくて、学校教育がめざすのは「畸人」の育成である。
「畸人」とは同時代の揺れ動く価値観を顧慮することなく、ひたすら敬慕する「先賢」に私淑するものの謂いである。だから江戸文化を追慕する成島柳北や「漱石先生」をアイドルとした内田百鬼園や「鴎外先生」と「先考」を敬慕する永井荷風は「畸人」と呼ばれるのである。
学校教育とは帰する所「先賢の教え」を継承することの意義を講ずるにあり、自余のことは論ずるに足りない。
教育の本義とは学生をして「ブレークスルー」を経験させることにあり、真の「ブレークスルー」は師に仕えることによってしか果たせないとウチダは考えるからである。
というようなことを語ったのであるが、なんだかあまり「夕刊」向きの話じゃなかったかも。

本日の朝日新聞の夕刊に甲野先生とご一緒に、武術の現代的意義について語る記事が出た。
甲野先生と同じ記事の中で扱って頂くというのはまことに光栄なことではあるが、講習会で甲野先生に笑いながら投げ飛ばされているウチダとしては汗顔の至りである。
おまけに女学院の道場で岸田さんを投げている瞬間の私の凶相をきっちりとらえた写真まで出てしまった。うう、世間が狭くなるよ。
甲野善紀先生は11月25日に本学で四回目講習会を持たれる予定である。
去年の12月に最初の講演会と講習会があって、そのあと2月に稽古に遊びに来られて、6月に講演会と講習会。そして11月。一年間に四回である。
この間の電話で「私は神戸女学院大学の非常勤講師みたいなものですね」と笑っておられたけれど、たしかにトータルでは集中講義に来ている非常勤講師と同じくらいの時間数になりそうである。
朝日の記事はこの間の甲野先生と本学合気道部の「ご縁」ができての一周年記念として読んで頂きたいと思う。(天下の公器を使って、私的な「ご縁」を奉祝するというのも、ちょっと図々しいですけど)