10月18日

2002-10-18 vendredi

木曜と金曜は朝が早く、夜が遅い。金曜日はときどき大学に12時間いることがある。
ふつうのおつとめ人諸氏が聞いたら、そんなのふつうじゃんかとお怒りになられるだろうが、ウチダのような人間は大学キャンパス内に12時間もいると、とっても疲れちゃうのである。
木曜は夕方から会議があって終わったのが8時過ぎ。家にたどりついて、やれやれとネクタイをほどいたところに電話があって、1時間半ほど大学の問題について議論をすることになった。

先方の先生には先生なりのお考えがあり、私にはまた別の考えがある。
私はその先生の判断に与しないけれど、それはその先生の判断が間違っていると思っているからではない。私とその先生では、それぞれに判断の基礎になっている情報とその評価が違うということにすぎない。
どちらがより適切に現状を見ているのかはふたりのどちらにも決定できない。
だから「うーん、なんだか意見が違うみたいだね。じゃあとりあえず意見交換をした、ということでまたね」とお別れしたいのであるが、先方はしぶとく私の翻意をもとめるのである。
ウチダはたいていのことについては翻意すること風のごとくはやい。しかし、ときにはロバのごとく頑固である。
ロバくんになってがんばっているうちに先方も根負けしてようやく受話器から解放され、お風呂に入り、遅い夕食をとるともう11時を回っていた。

議論の内容は大学の内情にかかわることなのでここには書けないが、選択肢は「崩れかかったシステムのテコ入れ」と「うまく運転しているシステムのさらなるクオリティの向上」のどちらに優先的に資源を配置するか、という政治的判断の問題である。
この優先順位の決定はむずかしい。
ことはほとんどそのひとの人生観にかかわるからだ。
プロジェクトの優先順位が決定できない場合、次善の判断基準は「投下するリソースに対するリターンの確実性」であると私は思う。
だが、この場合も、危機的状況だからこそ「起死回生の一発勝負」に出たがる人もいる。
ウチダは気質的に「一発勝負」というものを好まない。そもそも「勝負」というものを好まない。
しかし、これもつきつめれば気質の問題、好みの問題である。
人間たちのあいだの政治的判断の違いのかなりの部分は「好みの問題」に帰着すると私は思っている。
客観的な情勢判断を一方が完全に見誤っており、一方が完全に洞察している、というような理想的な「当否」の差というものはまず存在しない。
少なくとも私は「状況を完全に洞察していたので、正しい政治判断を下した」ことが一度もない。
結果的に正し判断をしたらしく思われたケースはいくつもある。
でも、それは状況を完全に洞察していたからではない。たぶんに、気質的なものに左右されて「やなものはやなの」というあまり説得力のない理由で選択はなされたのである。
だから、世間では誤解している人が多いが、ウチダはまるで議論好きの人間ではない。
むしろ議論の嫌いな人間である。

どうでもいいことについては、ほとんどシステマティックに譲歩し翻意し謝罪する。
どうでもよくないことについては決して譲らないし、まげないし、謝らない。
ひとの話しを聞いているうちに「しだいに自分のあやまちに気づいた」というような悠長なことは私の身には起こらないし、逆に、諄々と説得しているうちに相手に自分の過ちに気づかせたというようなことに成功したためしもない。
話というのは通じるときは一発で通じるし、通じないときは永遠に通じない。
そういうものである。

そういうものだ、と思っている人と話をすると、なぜだか意見がどれほど違っていても、話が早い。
「話が早い」人との議論では、どれほど意見が違っても、その食い違いが致命的になることはない。
「話が早い」人というのは、「相手と意見が違う」ことと「『相手と意見が違う』という事実について相手と合意すること」のどちらが双方に利益をもたらすか、計算がすぐに立つ人である。
対立点ではなく、合意点を拾いながら話を先に進める人、それが「話の早い人」である。
だから、「話の早い人」はこちらにとっては「いちばん自分の非を認め易い人」である。
なぜなら、「自分の非を認める」ということが新たな合意点になって、その事実が二人の計算表の上では、プラス点にカウントされるからである。
「話の早い人」同士の会話はだから端から見ていると両者が争って「自分の非を認め合う」ふしぎな譲り合いの場になる。
だって、相手に非を認めさせることよりも、自分の非を認める方が、手間がかからないからだ。

私はそういう「話の早い人」と話すのが好きだ。
でもそう言う風に考える人って、ほんとうに少ないんだよね。