10月11日

2002-10-11 vendredi

「ボーイズラブ」とか「やおい」とか「萌え」とかいうのはウチダにはわからんと書いたばかりで舌の根も乾かぬうちにこんなことを言うのは恐縮だが、突然、一家言を得た。
H大のドクターで私の映画論を聴講に来ている院生さんとその話をしているうちに、ふと腑に落ちたのである。
なぜ、少女たちは「男性同士の同性愛のマンガ」を好むのか。
それは、「男性同士の同性愛」がエロスの形態として、きわだって非功利的なものだからである。

問題はエロスと主体の関係にある。
近代的な枠組みでは、「私」が「私の性的リソース」を「所有」し「統御」しているというふうに考える。
だとすれば、私の性的リソースは「私」の利益を最大化する方向で「使用される」べきである。
したがって、「私」がある種の性的逸脱を犯した場合、それは「私」にとっては性的リソースの有効利用であるに違いない。
近代主義者はそういうふうに考える。
だから上野千鶴子のような人が「売春する女子高校生は、自分が自分の性的リソースの独占的な使用者であることを宣言するために売春しているのだ。自己決定できる主体であることを確認するために売春しているのだ」というようなとんちんかんなことを言い出すことになる。
だって、どう考えても話は逆だからである。

女子高生が自分の性的リソースの主人であることを宣言するために、売春を「している」のではない。
エロスが女子高校生の主人であることを宣言するために、売春を「させている」のである。

近代主義者は最終的には「私」を究極の参照枠にしてしか人間の行動を理解することができないから、この簡単な理屈が分からない。
人間の行動をコントロールしているのは「私」じゃない。
「私」というのは、「現実界」の圧倒的な支配から「人間」を守るために人間が作り出した「虚構」である。
そんなものにエロスがコントロールできるはずがないではないか。
「売春は効率のよい職業である」とか「援交は癒しである」とか「フリーセックスは自己決定のしるしである」とかいう、人間的中心にひきつけた功利的説明をしてうなずいている社会学者は悪いけれど人間のことを何も分かっていないと思う。
これらの説明はすべて「自己決定」とか「癒し」とか「主体性の確立」とか「個の自由」とかいう「近代的価値」を最終的な審級に擬している。
だが、どうしてエロスがつねに人間的価値に従属するというようなめでたいことを考えられるのであろう。
自分自身の欲望のあり方をみればすぐに分かるはずだ。

人間がエロスを使用しているのではない。
エロスが人間を駆動しているのだ。

だからこそ、この「邪神」のような怪異なるエロスを鎮めるために人間は数十万年にわたってさまざまな制度を工夫してきた。
しかし、近代人はそれらの制度がなんのためのものであるか、その起源を忘れてしまった。
そして「性的抑圧からの解放」というようなおめでたいことを言い始めたのである。

性的禁忌を否定することは人間そのものを否定することだ。
性的抑圧から人間的自由を回復し、どのような性的行動をとるかは主体の自己決定に委ねられるべきだというような主張は、致命的なまでに人間主義的な本末転倒を犯している。
人間は性的抑圧の効果として成立したものである。
「人間を性的抑圧から解放する」というのは、「ドーナツの穴をドーナツから解放する」とか「『どか』を『長閑』から解放する」と言っているのと同じことである。
システムを壊せば、システム内の記号でしかないものは雲散霧消するほかない。

しかし、解放論者たちは人間の「主体性」というようなかよわい虚構に不可能な仕事を背負わせて、平然としている。
私たちは性にかかわる抑圧的な諸制度をつうじて、絶えず「性的行動を人間的価値の形成とリンクさせる」というしかたで、性的エネルギーを収奪し、性的自由を抑圧し、そうやって「主体性」とか「意識」とか「自我」とかいう概念を維持してきた。
しかし、「性的抑圧からの解放」が人間的価値の形成とリンクされれば、もう性にかかわる抑圧的諸制度は支えきれない。

人間たちはながいあいだ、いかにしてエロスと人間的価値を折り合わせるか、工夫に工夫を重ねてきた。
最初の功利的説明は「エロスは種の再生産のためのもの」という「生殖価値説」である。
生殖のために必要なエロスだけを「人間的なもの」として承認しようということを考えた知恵者がいた。(しかし、もちろんこん作り話を信じない人間もたくさんいた。ソクラテスとか)
そのあと、エロスは「人間同士をむすびつける聖なるコミュニケーション・リソースだ」という「恋愛価値説」が大受けして、長い間支配的なイデオロギーとなった。
このイデオロギーでは「愛しているもの同士がセックスするのはよいが、愛のないセックスはダメ」というきびしいルールを課した。
ところが、そのうちに人々は「愛のないセックス」の方が往々にして「愛している同士のセックス」より快適であることに気づいた。
それも当然である。
「愛のないセックス」の方がずっとエロティックだからだ。
それは生殖にも関係しないし、人間同士の魂のふれあいにも関係しない。
人々は「人間中心主義」から「エロス中心主義」に移行しはじめた。
人親族の維持のとか、金儲けとか、「永遠の愛」とか、そういう幻想的な人間的諸価値にエロスがリンクしている場合と、人間がただエロスの自己実現のために利用されている道具的存在である場合とどっちがエロティックな意味で「純粋」であるかは言うまでもない。

私たちの性の歴史は「エロスが人間的コントロールをはなれ、エロスが人間をコントロールする局面」に踏み込みつつある。
そこで、いかなる人間的価値ともリンクしないような、「その純粋形態におけるエロス」が概念として、業態として、物語として、あるいは図像として要請されることになる。
とりあえず私たちが想像できる範囲で、人間的価値を脱ぎ捨てた「純粋形態におけるエロス」の形態はつぎのようなものとなるだろう。

(1)種の存続に関与しない
(2)愛に関与しない
(3)市場価値に関与しない
(4)総じて、現在の人間的諸価値(共同体原理、倫理、品格、美、コミュニケーションなど)に関与しない

不倫とか援交とかはこれらの条件のいくつかをクリアーしている。
しかし、うっかり避妊に失敗すると(1)という最大の「人間的価値」の生成に貢献してしまうという点で致命的なリスクをかかえている。
その点では、「同性愛」「幼児姦」「獣姦」「屍姦」などのほうがずっと「エロス純度」が高い。(種の再生産が回避できる)
異性愛でも、「結婚を前提にしたセックス」よりは「知らない人とのゆきずりのセックス」の方がエロス純度が高い。(親族の形成が回避できる)
知っている同士でも、「愛のあるセックス」より「愛のないセックス」の方がエロス純度が高い(恋愛の形成が回避できる)
愛のないセックスでも、「売春」より「ただ」の方がエロス純度が高い。(市場価値の形成が回避できる)

つまり私たちの時代における人々の性行動は「エロス純度がより高く、人間的価値を形成する可能性のより低いもの」を優先的に選択する傾向があるのである。
結果的に、ボーイズラブ漫画にみられるような、「ゆきずり」で、「愛がなくて」、「無料でなされる」「同性愛」者同士のセックスがきわだって非人間的で、エロス純度の高い性行動形態として好んで選択されることになるのは、趨勢からして避けがたいのである。

これらの行動はべつに人間の側に深い考えがあって、決然と主体的に選択されているわけではぜんぜんない。
人々が人間的価値の形成よりも、エロスの専横に屈服することを選んだ結果である。
そういうことを「したい」という欲望のあり方を「人間的」と形容するということが人間中心主義者の最後の「善意」なんだろうけれど。
もうそういうことばをつかって説明するのは止めたい。
私たちは「人間であることを止める」という方向に向かって、あるいは「人間」ということばにまったく違う定義を与える方向に歩んでいるのである。

私はそういうだいじなことをあまり軽々に決断すべきではないと思っている。
しかし、こういう考え方をするひとはほんとうに、ほんとうに悲しいほどに少数派なのである。