10月9日

2002-10-09 mercredi

借金について考える。

私は借金をしない。
ウチダ家の家計は無借金経営である。
「収入より少ない支出で暮らす」主義であるから、誰かにお金を借りるとか、月々の生活費が足りないという事態は私の人生には起こらない。
しかし、「困っているから」と乞われれば金は貸す。
いまどきの低金利なら銀行に預けても、ひとに貸しても変わらない。
乞われるままに金を貸し続けていたら、ウチダの方がずいぶん貧乏になってしまった。
でも、当面まとまったお金を使うあてもないし(ジャガーを買うのは止めたから)、生活には特段の支障はない。
出ていったお金は家出娘のように、いったきりなかなか返ってこない。

先日、むかしの知人から借金の申し込みがあった。
つまらない借金が雪だるま式にふくれて、あがきがつかない。このままでは仕事も失うし、家庭も崩壊してしまうから、借金をきれいにして、人生をやり直したいというお申し出である。
子どものころから知っている子であるから、言われるままに貸した。
電話口では、何年かけても毎月分割で返済しますと律儀な約束をしていたのだが、最初の返済日が過ぎたが何の音沙汰もない。
まあ、そういうものである。
これは貸したウチダが悪い。
お金を借りた人間というのは、お金を貸してくれた人間に対して、そのときだけは感謝の気持ちをいだくが、それが「債権者」というものとして観念されると、あまり感謝とか敬愛とか、そういうポジティヴな感情とともに回想されることがないのである。
「債鬼」なんていうくらいだからね。
「鬼」を喜ばせるために奮励努力する人間はいない。
だから、多くのひとびとはこつこつお金を返すよりは、むしろ「借りた金を返さないことで、債鬼に罰を与える」という前向きの生き方を選ぶことになる。
人間の心理としては、これはごく自然なことであろうと私は思う。

刻下の経済危機の原因のひとつは、銀行のかかえる不良債権であるが、これは要するに「金を借りたが、返さない」という膨大な数のひとびとが存在するということである。
なぜ、これほど多くのひとが借りた金を返さないかというと、彼らは「返せない」というより、「返したくない」からである。
それは、「借りた金を返さないことで、銀行に罰を与えること」の方が、「借りた金を返して、銀行を喜ばせること」よりも快感原則にかなっているからである。
経済行為の根本にあるのは合理的判断ではない。人間のそういう「業」のようなものである。
公的資金を投入しての不良債権処理を「理不尽」だと怒る人がいるが、人間というのはもともとそういうものなのである。それをなじっても始まらない。

ものを贈られると人間はそれに対して心理的負債感を感じる。
贈られたもの以上のものを返さなければならないと思いこむ。
これを「反対給付」という。
この「本能」は人間の歴史と同じだけ古い。(反対給付の義務を感じないものは「人間」ではない)
だから、借金を返さないやつは人間ではない、というようなせこいことをウチダは申し上げているのではない。そうではなくて、借金を返さないことこそが人間的な行為なのだ、ということを申し上げたいのである。
他者から何かを贈られた場合、それによって生じる「反対給付」の心理的負債感の厄介なところは、「同じものを、同じ人に返す」ことでは義務感が癒されない、という点にある。
この反対給付義務の解消のために、人間は、「同じ人に別のものを贈り」かつ「別の人に同じものを贈る」ことになる。
なぜそういうことになっているのか、理由は知らない。
しかし、大昔からそういうことになっているのである。
あるものを贈られた場合、私たちは与えた人にそれと同じものを返すことができない。
それとは違うもので、かつ受け取った方が心理的負債感を覚えるようなものを贈り返そうとするか、(交換というのは、そういう儀礼である)あるいは、それと同じものを別のひとに贈るのである。(婚姻というのは、そういう儀礼である)
この反対給付システムが機能しているせいで、「交換」が始まり、「市場」が立ち上がり、「貨幣」ができ、「商品」が流通し、「ことば」が生成し、「親族制度」ができあがるのである。
すべての根元にあるのは、「反対給付」である。

だから私が貸したお金についても同じことが起こる。
私が貸したお金は私ではない別の人間のところに「パス」される。(今回の場合は「サラ金」業者に)
そして、「お金とは違うもので、かつ私に心理的な威圧感をあたえるようなもの」が私には「反対給付」されることになる。
これが交換の王道というものであり、私が文句を言っても始まらない。
だからこそ、お金を借りた場合は、ふつう「利息」というものをつけるのである。
「利息がついたお金」ということで、これは「貸した金」とは「別のもの」ということになる。
「別のもの」は返し易いが、「同じもの」は返しにくい。
これは人間の本能である。
「こんにちは」という呼びかけに「こんにちは」と答えるのはすでにして非礼のはじまりである。
「こんにちは」に対しては「こんにちは、いい天気ですね」というふうに「利息」をつけて返さないといけない。
それに対してはさらに「ほんとに、いいお天気ですね。みなさんお元気?」というふうにさらに「利息」をつけた返答が返される。
原理的にはこれが無限に続く。

「こんにちは」
「こんにちは」
「元気?」
「元気」
「どこゆくの?」
「キミと同じとこ」
「なんで?」
「キミと同じ理由」

というような「利息のつかない応答」は喧嘩を売っているのと同じである。
だから「利息を高く付ける方がお金は返されやすい」という法則が存在する。
銀行から借りた低金利の借金はいくらでも踏み倒すが、マチ金から借りた「トイチ」のカラス金は命に替えても返すというひとが多い。
別にヤクザの追い込みが恐ろしいからではなく、利息が高い金は「借りた金」とはまったく別物(ある種の「具現化された不幸」のようなもの)になってしまっているので、返すときに、「別のものと交換した」という気分になって、返し易いのである。
利息をつけるというのは、別に近代的な合理主義の発想ではなく、利息をつければつけるほど貨幣の往還は加速し、利息がつかない金では経済活動が停滞してしまうという人間の本性にねざした制度なのである。

さて、反対給付は、「別の人に同じものを贈る」「同じ人に別のものを贈る」というふたつの形態をとる、ということをさきに申し上げたが、「利息をつけてお金を返す」ということができない場合、債務者は「金とは別の形態をもち、かつ贈り主に心理的威圧感をあたえるようなもの」をやむなく選ぶことになる。
すでに見たように、多くの場合、それは心理的には「憎悪」として、形態的には「罰」として現れる。
『ヴェニスの商人』という話はよくよく考えると不条理な物語である。
アントニオは高利貸しのシャイロックからお金を借りるが船の難破で返せなくなる。
借金のかたに「肉一ポンド」を差し上げますと書いてしまったのだから債務は履行せねばならない。(そういう契約にサインするアントニオがバカなのであるが、こいつは根が商人だからこういうリスキーなことが三度の飯より好きなのである。それに、そういうことが「三度の飯より好き」というような奴でないと生き馬の目を抜くベニスでは商人の看板を上げてられない)
さて、アントニオはシャイロックにやまのような利息をつけて返して、「ぐうの音もでない」ような心理的威圧感を与えてやろうとたくらんで借金をするのであるが、当然のように船は沈没し、借金は返せなくなる。
「返せない借金」のその負債感は当然のようにシャイロックへの満場一致の憎悪として結実する。
シャイロックは「お金を貸し、契約を取り交わし、契約の条文通りの履行を求め」たその結果、罰を受けてすべてを失うのである。
一見、不条理な話である。
しかし、これこそ「借金」をめぐる人間の本性を鋭く活写した物語と言わねばならない。
シャイロックに借りた金への「反対給付」として、アントニオやポーシャら全員が同意した結論は「シャイロックの破滅」という「罰」だったのである。
これは人間の発想としてはたいへん条理にかなっている。
そもそもアントニオがめちゃくちゃな高利の借金をするのは、シャイロックと「対等」になりたくないからである。同じ金額を返したのでは、反対給付にならない。借りた金の二倍三倍を叩き返してシャイロックをあざ笑ってやりたいという欲望がアントニオをほとんど必要もない借金に駆り立てるのである。
だから、金が返せなければ、シャイロックを破滅させることで、それと同じような「心理的勝利」を収めようとするのはアントニオ的には首尾一貫したことなのである。

私はうっかりして「利息」をつけずにお金を貸してしまったので、債務者は「お金以外の形態」での反対給付を案出せねばならなくなった。
彼をそこに追い込んだのはウチダの無知である。
「トイチ」とはいわぬまでも、年利50%くらいで貸しておけば、ばんばん回収できたであろうし、人間関係も深い愛情と敬意のうちに推移したであろうに、惜しいことをした。(『ミナミの帝王』を見たとき、それに気づくべきであった)
それにつけても、人間の行動というのはじつにみごとに構造法則にしたがっているものである。

お金というのは実に奥の深いものである。
ウチダとしては、今後さらにお金についての研究と省察を深めたいと思っている。
そのためにも、「実験材料」をできるだけ大量かつ長期的にストックしておきたいものだと思っておりますので、拝して関係各方面のご協力を乞う次第でございます。はい。