10月8日

2002-10-08 mardi

「さる週刊誌」のお仕事をお断りしたら、掲載は来年発行の号だけれど、原稿は年内締め切り、というのではどうですかという「おっと、それがあったか」的オッファーに代替される。
そう言われると「年内は休まず営業します」という看板を出している以上、断るわけにはゆかない。
さすが生き馬の目を抜く出版業界の荒事師たちである。
ウチダごときアマチュア物書きに仕事をさせるのは赤子の手をひねるようなものである。

『赤旗』に『寝ながら・・・』の書評が掲載される。
文春の嶋津さんからファックスで送られてきて「小社の新書が『赤旗』で書評されるのはまことに珍しいのですが・・・」と付記されていた。
書評を拝見すると、どうやら『寝ながら』でヘーゲルとマルクスが構造主義の祖であると論じたあたりが『赤旗』書評子の琴線に触れたらしい。
たしかに構造主義がでてきたときは、サルトルの激烈な批判もあって、アンチ・マルクス主義の思潮だというふうに理解する傾向があったのは事実である。
でも、レヴィ=ストロースは青年期にはフランスのマルクス主義ムーヴメントの旗手のひとりだったし、バルトだって初期の書き物はまるごとマルクス主義だし、ラカンはコジェーヴのヘーゲル講義をヒントにその欲望論を構築したんだから、構造主義=アンチ・マルクス主義というのは見当違いである。
構造主義はマルクス主義のいわば正系の子孫である。
だから、『寝ながら』に書いたとおり、マルクスの知見はこれまでもこれからもつねに生産的である。いまマルクスがはやらないのは、「マルクスがはやっていない」からであって、別にマルクスの知見に致命的な欠陥があるからではない。(ソクラテスやセネカだって、べつに「はやっていない」けれど、それは彼らの思想のどこかに破滅的な理論的瑕疵があるからではない。単に「はやっていない」だけのことである。)
私は「・・・はもう古い。これからは・・・の時代だ」という広告代理店的なアオリをする思想家がだい嫌いである。
賢いひとは時代にかかわらず賢い。バカはどんな時代でもバカである。
マルクスやヘーゲルは賢者である。
だから、いつ読んでも得るところはやまのようにある。
ポストモダンの思潮の中にマルクス、ヘーゲルに及ぶ思想家はいない。
だから、そんなセコ思想家の本を読む暇があったら、マルクスやヘーゲルを読むほうがよっぽど時間の有効利用である。
そんな「あたりまえのこと」をアナウンスするひとがあまりいないということが問題だ。

浄土真宗本の企画者である女性編集者が登場。
うちのゼミの二、三期生たちとほぼ同年代である。
聞けばD志社在学中に非常勤講師で来ていたK林M廣先生のお導きで現代思想に開眼された由。(T川T子先生ともごいっしょに聴講していたのだそうである)
世間は狭い。
さまざまの「本願寺グッズ」をいただき、「ここだけの話」的インサイドストーリーをうかがって「おおお」とか「そ、それは」というような声をあげる。たいへんおもしろいお話であったのだが、話の性質上こういうところにばんばん書けないのが残念である。
仕事の話はさておいて、K林先生を悩ませた「2ちゃんねる」事件について続報をうかがう。
「2ちゃんねる」のスレッドは閉鎖されたそうである。さいごのころは、ずいぶんひどいことが書いてあってもうめちゃくちゃになっていたとのこと。
人間の悪意というのは底が知れない。
聞けば、「内田樹」でも、Yahoo! に検索をかけると1200件くらいヒットするそうである。
その中にはさぞやオソロシイ内容のものがあるのであろうが、ウチダは「ウチダに対する批判」を一顧だにしない主義なので、決してそのようなものを覗き見たりはしない。

「批判を一顧だにしない」主義であるなどというと、対話の思想、コミュニケーションの哲学などというものを宣布しておきながら、どういう了見だと怒る人がいるかもしれないが、私がそのような思想を宣布して啓蒙活動に相勤めているのは、誰のためでもない、私のためである。
私は「自分がより快適な人生を送れるように」、レヴィナス先生の思想を顕彰しているのである。余人のためではない。
間違えないでほしいが、私は「批判を一顧だにしない」と申し上げているのであって、「異論を一顧だにしない」とは言っていない。
私の考え方に対する異論があるのは当然である。
私は異論には耳を傾ける。
それも、かなり熱心に耳を傾ける。
というのは、「異論」の中には「私とはものの見方が違う」というだけで、私の耳に快いものも含まれているからだ。(たとえば、「ウチダさんは、ほんとうは心のやさしい人だよ」というようなご意見は、私の自己評価にはまったく反しているが、そのまま指摘し続けていただいて、ウチダとしてはとくに差し支えがない)
また、「異論」の中には、「私がぜんぜん知らないソース」からの情報を伝えるものがある。
そういう「知らないこと」について、自慢じゃないが、私はたいへん謙虚な聞き手である。
私は異業種のひとの「業界話」の類には実に好奇心旺盛である。(今日も本願寺の組織問題について、実に熱心に拝聴してしまったし、甲野先生の「武道界秘話」や名越先生の「精神科医の業界秘話」なども耳を「ダンボ」にして聞いている)
ときどき、話している当人から「こんな話、ほんとに面白いんですか?」と不思議な顔をされることがある。
面白いんですよ。知らないことを教えてもらうの、大好きだから。
もうお分かりであろうが、私が批判を「一顧だにしない」のは、それが「私がもう知っていること」しか情報として含んでいないからである。
ウチダがあまり賢くないとか、ウチダがエゴイストであるとか、ウチダが性悪であるとか、ウチダが暴力的であるとか、そういうことはウチダと52年つきあっているウチダ自身が世界中のだれよりもよく存じ上げているといって過言でない。
だから、「ウチダに対する悪口」というものは、私には新たな情報を何一つもたらさない。
「さあ、そろそろテレビを見るのをやめて、ためた宿題でもやっか」と思っているときに、狙いすましたように母親から「いい加減にテレビ消しなさい! たまった宿題はどうなったの!」と怒鳴られたら、「うっせー! 糞ババー」(バタン!)というふうになることは避けがたいであろう。
「批判」に対して人が激怒するのは、「そんなことを言われるとは思っていなかったこと」を言われるからではなく、「そんなことを言われたらやだなあ」と思っていることを言われるからである。
本人が熟知していて、にもかかわらず改めようがなく、それゆえ「それだけは言ってくれるな」と念じていることを肺腑を抉るような仕方で指摘するのが「批判」というものである。
そんなものに耳を傾けても、腹は立つし、新しい情報はないし、役に立つことは何もない。
それゆえ、私は「批判は一顧だにしないこと」を主義としており、かつ世の人々にもそれを「福音」として宣べ伝えているのである。
しかし、世の人々の多くは「他者の批判にうなだれて、自己嫌悪を契機に人格陶冶をめざす」ことをよしとしており、私がいくら熱弁をふるっても、なかなか私の主張にうなずいてくれないのである。
あるいは、私のそのような「異論」は彼らとは「ものの見方が違う」のだけれど、そう指摘されると彼らとしてもとくに不快ではないので、「オレはそうは思わないけどなあ・・・でも、もっと続けて・・・」ということになっているのかもしれない。