10月6日

2002-10-06 dimanche

ひさしぶりの休日。
何も予定がないので、一日中原稿を書く。
PHP新書の原稿を書いて送稿。(これは毎回一つずつ「お題」を頂いて、それについてお答えするという形式。今回は二回目)
朝日新聞のe-メール時評の改訂版を送稿。
角川書店の『幸福論』(すごい題名だなあ)の校正。
それから『映画の構造分析』の書き直し。
「さる通信社」のデスクの方からメールが届く。
「期間限定物書き」宣言の微志をご了察頂いたようで、ほっとする。

メディアにはもう書かないというのには理由がある。
「どういう理由だかよく分からないけど、なんだかいやだ」ということである。
私の場合、「なんだかよくわかんないけど、いやだ」ということが人生の岐路における選択の基準になることが多い(というか、全部そうだな)。
私は自分のこの「なんだかよくわかんないけど、やだな」という感覚を信用している。
「なんか、これやだなあ」と感じるのだけれど、自分を納得させられる理由が思いつかない。(自分を納得させられないくらいだから、他人を納得させられるはずがない)
理由がおもいつかなくても、やなものはやなのである。
メディアに書かないもうひとつの(もうすこし説得力のある)理由は、自分の書くことにさして一般性があると思えないからである。
メディアで発言する人は(「私の視点」というような投稿記事を読んでいると思うけれど)自分の言っていることには普遍性があると信じている。
自分の考えは公共の福利を代表しているというふうに思えなければ、なかなかああいうことは書けるものではない。
でも、私はどう考えても、まったく公共の福利を代表していない。
私は「私」しか代表していない。
私が主張していることは、「そういうふうになると、私としてはたいへんに都合がいいんだけど」ということ「だけ」である。
他の皆さんにとってもそれが同じように都合のよいことかどうかは分からない。
いや、ほんとうは分かっているのだ。
私の提言していることは、私にとっては都合がよいが、私以外のほとんどの人にとってはあまり都合も良くないし、聞いて楽しくもない話である。
そういう話は「ときどき」聞くなら我慢できる。
我慢できるというか、場合によっては刺激的で面白かったりする。
でも、毎日聞かされたら、だんだん腹が立ってくる。
人を怒らせることについては(自慢じゃないが)私は天才的な人間である。
ありとあらゆる機会に、あらゆる話題について、私は必ず誰かの「虎の尾」を思い切り踏みつける。(その誘惑を私は我慢することができない)
そういう機会を無制限に拡大するべきではないという私の考え方って、そんなに「変」じゃないでしょ?