10月2日

2002-10-02 mercredi

さる通信社から原稿依頼が来る。
大沢真幸さんの「あとがま」で来年から「思想エッセイ」の連載をどうか、というありがたいオッファーである。
でも、「期限」が過ぎているので、泣く泣くお断りを入れる。
「連載をもたせてやろうというのに、『賞味期限』がどうたらこうたらと勝手をほざきおって、ウチダというのはなんと、ナマイキな野郎だ。二度と仕事はたのまん」と先方ははさぞやご立腹かもしれない。
まことに申し訳ないが、決めたことだから仕方がない。

「期間限定物書き」というのは、ウチダなりの節度の示し方である。
私は自分がどの程度の人間か熟知している。
私はろくにものを知らない。
知らないくせに、おしゃべりなので、知らないことについてもぺらぺらあることないことをしゃべりまくる。
ホームページで「そういうでまかせを聞くのが好き」という「内輪の読者」に向けて「笑いネタ」を提供しているかぎりは人畜無害だが、高所から一般読者に教えを垂れたり、しかり飛ばしたり、煽ったりするような格の人間では私はない。
もちろん、私のような無内容な人間の「ぺらぺら話」がある種の「いろもの」として、一時的にメディア市場で面白がられるという事情は、理解できないわけではない。
マーケットはいつでも「目新しいもの」を求めているからね。
しかし、内容のないものはいずれ飽きられる。
自分がどれほど無内容な人間であるかは、私本人が誰よりもよく知っている。
こういう人間が知識人面をしてメディアに顔を出し、有名人になったような錯覚に陥るさまというのは、端から見ていて、たいそう見苦しいものである。
ウチダは「かっこわるいこと」が嫌いな人間であるが、だが、このままほうっておくと、ウチダは間違いなくそういう見苦しいさまをさらすようになる。
そういう自分を見たくないのである。
別にお金はいらない。(いまのお給料で十分足りている)
名前も顔も知られたくない。(TSUTAYA でビデオを借りるときに、「ねえねえ、ウチダ・タツルってさ、さっき『団鬼六・花と蛇』なんか借りよったで。書いてることはかっこつけてっけど、ただのオッサンやん」なんてバイトの店員に噂されたりするのはまっぴらごめんである)
もちろんいいたいことはいろいろある。
でも、声を届かせるのは、言ったことに私自身が責任をもてる範囲にとどめたい。
同意を得るにせよ、異論を聞くにせよ、私に責任がとれる範囲の人間とのコミュニケーションにとどめたい。
いや、厳密に言えば、「私に責任がとれる範囲」ではなく、「私が責任を取る必要がない」範囲だな。
とりあえず、ウチダが書いた、と著者名が明らかにしてある本を買った場合には、読者には購入を決断したことについての自己責任がある。
この書籍の購入するかしないかの決断は100%読者に属し、書いた側はその決定に関与することができない。(私に関与ができるなら、すでに私はミリオンセラー作家となっているであろう)
「くそ、バカな本を買ってしまった」とゴミ箱に投げ捨てても、それは私の責任ではない。まるっとそちらの責任である。お金は返さない。
バカ本とよい本を見分けるための授業料と思えば安いものだ。
また私のホームページを見て、自分と意見が違うとか、あまりたいしたことを言ってないと評価したとても、それも私の責任ではない。
だったら、はじめから読まなければいいのである。
閲読するのに課金しているわけじゃないんだし、私の方から「読んで下さい」とお願いしているわけでもないのだから、因縁をつけられても困る。
「幼児向け絵本」を広げて、「ここには老人読者へのメッセージがない」と怒られたって、責任のとりようがないのと同じである。
しかし、新聞や雑誌に書くというのは、そういうわけにはゆかない。
そこはそれを定期購読しているすべての読者に課金している。読者にはそのリターンを求める権利がある。
朝、何気なく新聞を開いて、私の書いたものを読んで、一日気分が悪かったという読者に対しては率直に「すまない」と思う。
こういうものを公器を使って報道してよいのか、と怒られたら、私には返す言葉がない。
というのが「期間限定」の理由なのである。
もう何度も繰り返し書いているので、いくらなんでもいまさら仕事を頼んでくる出版社はないと思うけれど(「浄土真宗」くらいで打ち止めにしたいものである)、そういう事情ですので、ひとつご勘弁を。