9月25日

2002-09-25 mercredi

昨日は大学院の秋季入試があって、今日は臨時教授会。
もうすっかり「on duty」モードになってしまった。
『ミーツ』の江さんから「岸和田のだんじりが終わると関西は秋になります」というしみじみとした一節が届いた。
夏休みが終わると、散文的な秋が来る。
もう来週からは授業が始まる。
授業すること自体は大好きだし、学生さんたちと再会するのは嬉しいんだけれど、やはり夏が終わると悲しい。

今年の夏は実によく仕事をした。
なにしろ、6冊本を仕上げたのである。
『ラカン/ヒッチコック』、『有馬温泉本』、『口述筆記本』、『おじさん2』、『フェミニズム論』、『映画の構造分析』。
「ありものコンピレーション」や「口からでまかせ本」を含めてとはいえ、よく書いたものである。
どうもエクリチュールの「たが」がはずれてしまったらしい。

『映画の構造分析』の最終章の「第四の壁・第四の客」は三日で書いた。
書き出したら止まらない。
『裏窓』と『秋刀魚の味』のカメラワークの共通性について論じて、フーコーの『言葉と物』の「侍女たち」の分析につなげるという仕掛けである。
もとネタは『ラカン/ヒッチコック』で訳したミシェル・シオンの『第四の側面』。(自分で翻訳した箇所をそのまま次の仕事の原稿にごっそり使うんだから、効率のよいことである。こういうのって、何て言うんだろう?「マッチポンプ」じゃなくて・・・「手前味噌」か。)
シオンのもとネタがラカンではなくフーコーであることを発見したという話は前に書いたけれど、よくよくフーコーを読んでみたら、フーコーとラカンは同じことを言っていたのだった。
それは「表象秩序を制定しているものは、表象の外部からみつめる不可視の視点であるが、その『不可視の視点』は表象の中に『生気のない、みすぼらしい像』として必ず反映している」という知見である。

分かりやすく言うと、ある画面の「意味」を最終的に決定しているのは、「そこに何が映し出されているか?」ではなく、「誰が見ているか?」である。(これはわかるよね)
とうぜんながら、私たちが何かを見ている当の自分の眼を見ることができないとの同じように、「見ているものの視線の起源」は知覚上の「盲点」であるから、見えるはずがない。
ところが、見えるはずのないものがなぜか画面の中には映り込んでいるのである。
(ベラスケスの「侍女たち」では、すべての視線を支配するスペイン国王夫妻の像は、絵のいちばん奥の鏡に「ぼんやり」映っている)
フーコーはその事実を発見した。
ほんとうは見えないはずのもの、至上の権力の座、視野の絶対的「外部」にとどまっているはずのものが、なぜか画面の「内部」にみすぼらしいなりで入り込んでいる。
理由は不明。
こういう発見は、それを説明する理屈がどうこういうよりさきに、とにかく気がついた、というだけで「すごい」と思う。
それは自分である程度つじつまのあった仮説を立てておいて、その仮説にひっかかる事例を検索するという知的作業とは質が違うものだ。
「自分にうまく説明できないもの」、自分の視野から少しだけ足早に遠ざかろうとするもの、「解釈に抵抗するもの」が気になって仕方がないこと。
それが人間的知性のいちばんすぐれた機能だと私は思う。
ラカンにしてもフーコーにしてもデリダにしても、あれだけ「わかりにくい」のは、たぶん、自分でも何を言っているのかよく分かっていないからだ。
にもかかわらず、言っている本人も、自分でも何を言っているんだかよくわからない言葉で言おうとしていることが、「前代未聞のこと」であることについての確信だけは揺るがないというのが彼らのエクリチュールの魅力なのだ。

でも、どうしてなんだろう。
どうして、ベラスケスは「侍女たち」で鏡に国王夫妻の像を描き込んだのだろう。
どうして、ヒッチコックは『裏窓』で「第四の壁」をジェフが窓から落ちるシーンで、「うすぐらく、生気のない像」として映し出してしまったのだろう。
どうして『秋刀魚の味』の「若松」の場面で、中村伸郎の前の「誰もいない席」を小津は撮してしまったのだろう。

うーむ。
わからん。

それを「表象秩序の虚構性についての自己言及」というふうにまとめるのはたやすい。(って実際に私はそうやってまとめちゃったんだけど)
でも、そんな簡単な話とは違うはずだ。
なぜ、言説編制の「クッションの結び目」は、「クッションの結び目」でしかないことを言説の中でばらしてしまうのか。
どうして「底なしの欲望」は、「みすぼらしい」欲望の対象に固着してしまうのだろう。
「底なしの欲望」を「みすぼらしい欲望の対象に固着させることができた」ことによって人間は人間になったということなのだろうか。

・・・・わからん。

しかし、「・・・わからん」という問題に取り憑かれるというのって、ほんとうに「小さいけれど、確実な、幸福」(@村上春樹)のひとつではある。