9月22日

2002-09-22 dimanche

下川正謡会の「歌仙会」が無事終了。
歌仙会というのは、私も原義はよく知らないのであるが、「浴衣会」というか「ガラ・コンサート」というか、「格式張らない」能楽の発表会のことである。会場も能楽堂ではなく、先生のご自宅の舞台である。ここで来年の6月の大会でついた役の最初のおさらいをするのである。
私は来年は舞囃子『船弁慶』がついているので、今回は『船弁慶』の仕舞と独吟。そのほかに素謡『羽衣』のワキ、素謡『俊寛』、『摂待』、『盛久』の地謡、そして仕舞の地謡。ほとんど一日の半分くらいの時間舞台に出ていた。
とりあえず仕事は無事に終わり、下川先生からも「よくお稽古してますね」と過分のお言葉を頂く。

歌仙会で、四国の守さんの「いかりや呉服店」ご謹製の塩沢紬のグレーの着物をおろす。
これは私がはじめて自分の「趣味」でつくった着物である。
今年は印税収入がいくらかあったが、結局自分のために使ったのはこの塩沢の着物とアルマーニのスーツだけ。あとすべては甲野先生のいうところの「人生の税金」の支払いに当てた。
これだけ「税金」を納めておけば、とりあえずしばらくのあいだ、私の周囲に不幸な人間は出てこないはずである。

ご存知ない方のために甲野先生の「人生の税金」説というものをご紹介しておこう。
甲野先生によると、非常に運気の強い人間というものは、必ずその反作用として、周囲に救いがたく不幸な人間を生み出す。
天才的な芸術家や不世出の武道家は、例外なしに愛するものを失い、天涯孤独の老境を迎えることになっている。
別に、それほど例外的な存在でなくても、ちょっとした風向きで濡れ手で粟の金儲けをしたりした場合でも同じである。そのたまさかの幸運の分だけ、周囲の誰かが不運の「トレードオフ」を引き受けている。
「日の当たるところにいる」人間は、必ず「日陰」をつくりだすのと同じである。
それを防ぐためには、「よいこと」があったら、それを独占せずに、それをどんどん「パスする」ことが必要なのである。
日が当たるところにたまたま来たひとは、自分のうしろにいる人が日陰になっていると分かったら、「ぼく、もう十分あったまったから、場所、替わろう」と言ってあげるでしょ?
甲野先生の場合は、自分が営々と努力して獲得した身体技法上の知見を惜しげもなく一般公開してしまう。
以前に「なぜ、それほどまでにディスクロージャーにこだわるのですか」と訊ねたら、先生のお答えが「税金を払っているのです」というものだったのである。
この税金を滞納すると、どこかで誰かが(それも甲野先生の愛する人が)その分の支払いを要求されることになるので、あらかじめ自分で払っておくというのである。
私はこの説を聞いたときに、はたと膝を打った。
「税金」とか「幸運不運」というような功利的なワーディングで語られているけれど、それは表層的なことだ。
ここで先生は「倫理的に生きるとはどういうことか」をあやまたず指示しているのである。
つねに自分は「受益者」であるという仮定から発想し、どのような利益を自分は「不当に」賦与されており、誰にそれを「パス」すればよいのか、というふうに問いを立てること。
これはまず自分を「被害者」であると想定するところから出発し、どのような権利が自分から「不当に」剥奪されているのかを探り当て、その「不当な簒奪者」からいかにして「私の権利」を奪還するか、を問うすべての「社会改革理論」(マルクス主義もフェミニズムもその点では変わらない)のちょうど対極にある考え方である。
倫理性というのは、最終的には「私は不当に幸運を享受している」という考え方をするかしないか、という一点にかかっていると私は思う。
どれほど才能豊かでも、どれほど権力や威信を備えていても、それを「当然のこと」と思っている人間や、「まだまだ不足」と思っている人間は決して倫理的にはなれない。
その人は結局、世界中の価値あるものを見るたびに、それは本来「自分のもの」に帰すべきだと思う欲望から逃れることができない。
おそらくこれがもっとも非倫理的な考え方である。
逆に、どれほど才能がスカスカでも、どれほど非力で吹けば飛ぶような存在であっても、それを「なんだか私ばっかりずいぶんと幸運に恵まれちゃって、・・・スミマセン。困っている人に申し訳ないです」というふうに受け止めることのできる人は、「自分のもの」を求めない。
そういう人は、結局、自分がもっているものを洗いざらい(最後のパンの一切れまで)「私にほんとうは帰属すべきものではない」ものと思って「返納」しようとするようになるだろう。
「人生の税金」を払うのは、高額の所得がある人間ではない。(いくら高額の所得があっても、びた一文払わない人間はいくらもいる。)そうではなくて、自分の身の丈に合わない幸運に恵まれたと思う人間である。

不思議なところから原稿の依頼が来た。
本願寺出版社というところである。
依頼の内容は『寝ながら学べる浄土真宗』という趣旨の本を書いて貰いたいというものである。
びっくり。
もちろん私は浄土真宗について何も知らない。
親鸞も蓮如も読んだことがない。
「そこがだいじなんです」と先方はおっしゃる。
何にも知らないウチダが、『歎異抄』から読み出して、「えー、なんなのこれー? わっかんねーよ」と読み進んでゆくプロセスをリアルタイムでご報告してゆくうちに、だんだんとご宗旨のめざすところが見えてくる、という「現場からの同時中継」的な本を書いて欲しいという企画である。
浄土真宗をウチダごときが「寝ながら学んで」よいものであろうかと煩悶しつつ、ウチダは若い編集者が立てるこういう無謀な企画には基本的にたいへん好意的であるので、さっそく「いっすよー」と返事をする。
すると、クロネコヤマトの宅急便で本願寺出版社から参考文献が送られてきた。
『歎異抄』、『やさしい正信偈講座』(何て読むんだろ)、『浄土真宗必携』といった本がざざざと出てきた。はたしてどうなることであろうか。続報を待て。

NHKBS-2の日曜の朝の番組で『寝ながら』が紹介されたらしい。(うちはBSが入らないので、見てない)
荻野アンナさんが「オススメ」の一冊としてご紹介下さるということを製作会社からうかがった。荻野さんは考えてみると仏文の「同業者」である。(お会いしたことはないが)
どんなふうに紹介して頂いたのであろう。どきどき。
この製作会社(テレビマン・ユニオン)もそうだったが、このところ私に仕事の連絡を入れてくるのは若い女性が多い。
私のようなマイナー物書きを「発見」するということは、彼女たちがメディア業界の中で、「何か新しいこと」を探してとりわけ活発にアンテナを動かしているということの証拠だろう。
若い女性がそういう情報を送受信する最前線に立っているというのは、とても健全なことだと私は思う。経験的に言って、若い男性より若い女性の方が「へんてこなもの」に対する拒否反応が少ないからだ。
そういうインターフェイスの領域に若い女性がわんわん集まっているというのは、メディアのあり方が「社会を教導する」というトップダウンの権威的なものから、それとはかなり異質なモノにシフトしつつあることを意味しているのではないかと思う。
どういう方向に向かっているのかはっきりとは言えないけれど、何となく「よいほう」に変わりつつあるような気がする。