9月20日

2002-09-20 vendredi

掲示板では「大阪弁変換」につづいて「幼児語変換」のご紹介がなされ、これにはもう「鼻から牛乳」状態である。
ご存じない方のために、ご紹介しておくと、これはあるテクストを自動変換にかけると、文章がまるごと変容するというオソロシイ装置なのである。
どういうものがあるかというと、いまのところは「大阪弁」となんでも「ニャ」になる猫語変換とか「幼児語変換」、なんでも「漢字変換」がご紹介されている。
いくつについての機能を実際に演じてご覧に入れよう。
まずみずから実験台となって、9月17日の私の日記を順次変換しておめにかけよう。
まずオリジナルは次のようなものであった。

眠い。
合気道合宿から戻ってきたら全身へろへろで、もう一日使い物にならない。
こういうときは「とりあえずその場所にいっていれば、身体がきかなくても、頭がぼけていても仕事になる」というような種類のことしかできない。
というわけで、免許の更新にでかける。
どういう理由か知らないけれど、免許の更新というのはぜんぜん楽しくない仕事である。
新しい身分証明書がもらえるのだから、何となく「うれしい」気分になってもよいはずなのであるが、免許更新センターにいる人たちは、これ以上ないというくらい無表情であり、むしろ積極的に不機嫌である。
同じ状況にいる人間が数百人いあわせているというのに、隣にいる人間に話しかけて「視力検査って、めちゃいい加減ですな」とか「この交通安全協会の会費を免許の手料の窓口でさりげなく徴収するというのは一種の詐欺ですな」というようなことを言う人もひとりとしていない。
何となく「強制収容所」で順番待ちしているときというのはこういう感じなのであろうかと想像する。
別に対応する職員が非常に感じが悪いということではない。
むしろ、愛想がいいと言ってもよい。
しかし、その愛想の良さの背後に「立場上、愛想よくしてるけど、わしら警察じゃけんね」という威圧感がじりじりとにじんでいて、「気分が変わったら、いきなり怒鳴りつけたりすることもあるかもしれんけん、おとなしくしとき」という声が勝手に聞こえてくるのである。

まず最初にこれを「大阪弁変換」にかけてみると・・・

眠いちうわけや。
合気道合宿から戻ってきたら全身へろへろで、もう一日使い物にならへん。
こないなときは「とりあえずその場所にいていれば、身体がきかんと、頭がぼけてても仕事になる」ちうような種類のことしかでけへん。
ちうわけで、免許の更新にでかけるちうわけや。
どないな理由か知らんんやけど、免許の更新ちうんはサラサラ楽しない仕事なんや。
新しい身分証明書がもらえるんやから、何となく「うれしい」気分になってもよいはずやからあるが、免許更新センターにおるヤカラは、これ以上んというくらい無表情なんやし、むしろ積極的に不機嫌なんや。
同じ状況におる人間が数百人いあわせとるちうんやけど、隣におる人間に話しかけて「視力検査ちう、めちゃええ加減やな」とか「この交通安全協会の会費を免許の手数料の窓口でさりげなく徴収するゆうんは一種の詐欺だね」ちうようなことをぬかす人もひとりとしておらへん。
何となく「強制収容所」で順番待ちしてんときちうんはこないな感じやからあろうかと想像するちうわけや。
別に対応する職員がどエライ感じが悪いゆうこととちゃうんや。
むしろ、愛想がええとぬかしてもよいちうわけや。
せやけどダンさん、その愛想の良さの背後に「立場上、愛想ようしとるけど、わしら警察やったらけんね」ちう威圧感がじりじりとにじんでいて、「気分が変わったら、いきなり怒鳴りつけたりするっちうこともあるかもしれんけん、おとなしくしとき」ちう声が勝手に聞こえてくるのなんや。

「眠いちうわけや」から始まるのがど迫力だね。
では次は「にゃんにゃん語変換」

眠い。
合気道合宿から戻ってきたら全身へろへろで、もう一日使ぅ縫礫にニャらニャい。
こういうときは「とりあえずその場所にいっていれば、身体がきかニャくても、頭がぼけていても仕事にニャる」というようニャ種類のことしかできニャい。
というわけで、免許の更新にでかける。
どういう理由か知らニャいけれど、免許の更新というのはぜんぜん楽しくニャい仕事である。
新しい身分証明書がもらえるのだから、何とニャく「うれしい」気分にニャってもよいはずニャのであるが、免許更新センターにいる人たちは、これ以上ニャいというくらい無表情であり、むしろ積極的に不機嫌である。
同じ状況にいる人間が数百人いあわせているというのに、隣にいる人間に話しかけて「視力検査って、めちゃいい加減ですニャ」とか「この交通安全協会の会費を免許の手数料の窓口でさりげニャく徴収するというのは一種の詐欺だね」というようニャことを言う人もひとりとしていニャい。
何とニャく「強制収容所」で順番待ちしているときというのはこういう感じニャのであろうかと想像する。
別に対応する職員が非常に感じが悪いということではニャい。
むしろ、愛想がいいと言ってもよい。
しかし、その愛想の良さの背後に「立場上、愛想よくしてるけど、わしら警察じゃけんね」という威圧感がじりじりとにじんでいて、「気分が変わったら、いきニャり怒鳴りつけたりすることもあるかもしれんけん、おとニャしくしとき」という声が勝手に聞こえてくるのである。

なるほど「猫化」するとこうなるのね。
さて、壮絶なのは「幼児語化変換」である。
これはすごいよ。

眠いでちゅ。でもママといっしょじゃなきゃ、やだ〜〜。
合気道合宿から戻ってきたら全身へろへろで、もう一日使い物にならないでちゅ。
こういうときは「とりあえちゅちょの場所にいっていれば、身体がきかなくても、頭がぼけていても仕事になる」というような種類のことちかできないでちゅ。うえ〜〜ん。
というわけで、免許の更新にでかけるでちゅ。ばー。
どういう理由か知らないけれど、免許の更新というのはちぇんちぇん楽ちくない仕事でちゅ。
新ちい身分証明書がもらえるのだから、何となく「うれちい」気分になってもよいはちゅなのであるが、免許更新チェンターにいる人たちは、これ以上ないというくらい無表情であり、むちろ積極的に不機嫌でちゅ。
同ち状況にいる人間が数百人いあわちぇているというのに、隣にいる人間に話ちかけて「視力検査って、めちゃいい加減でちゅな」とか「この交通安全協会の会費を免許の手数料の窓口でちゃりげなく徴収しゅるというのは一種の詐欺だね」というようなことを言う人もひとりとちていないでちゅ。はーい。
何となく「強制収容所」で順番待ちちているときというのはこういう感ちなのであろうかと想像しゅるでちゅ。
別に対応しゅる職員が非常に感ちが悪いということではないでちゅ。えらいでしょっ!誉めて、誉めて〜。
むちろ、愛想がいいと言ってもよいでちゅ。はーい。
ちかち、ちょの愛想の良ちゃの背後に「立場上、愛想よくちてるけど、わちら警察ちゃけんね」という威圧感がちりちりとにちんでいて、「気分が変わったら、いきなり怒鳴りつけたりしゅることもあるかもちれんけん、おとなちくちとき」という声が勝手に聞こえてくるのでちゅ。ネコたんも。

「ネコたんも」がいいね。
というわけで、この変換なかなか油断のならないものなのであるが、それは幼児語変換すると、そのテクストの「構造」が透けて見えてくるということである。
そこで、誰に書いたものがいちばん「自然」かチェックしてみた。
とりあえず、実例としてお二人にご登場ねがおう。
まずはうっきーの「浮き憂き日録」。

9月1日(日)
昨晩から妹が遊びに来たので、翌日の今日は一緒に三宮に出かけたでちゅ。ぼく一人でお留守番できたよ。お昼ごはんに、妹がテレビ出演をちた店に連れてってもらい、オムライチュを食べるでちゅ。とてもおいちかったでちゅ。ばぶー。場所は、神戸市の加納町、「グルメ末松」というところでちゅ。三宮から少ち歩きまちゅ。お時間があればどうちょでちゅ。明日の遠足、晴れるかな?
なかなかに良い休日でちゅ。

9月2日(月)
朝から神戸ファッチョン美術館に「鉄腕アトムの軌跡展」を見に行くでちゅ。ロボットの日本で歴史や変遷、大阪万博の展示物、早稲田の研究の成果、ロボット漫画の流れなどについての展示があり、全体におもちろい展覧会だったでちゅ。お注射いたいよ〜。
とくに、万博のとき、手塚治虫がプロデューチュちた「フジパン館」のロボットを生身で見たときは、ちゅごく不思議な感覚がちたでちゅ。にんじんきらい。万博の時代にタイムチュリップちた気分だでちゅ。ママー。「ジャンケンゲーム」の機械にも、実際に触れて遊んでみたときもちょうだったでちゅ。
当時のどれだけのこどもやおとながこれに触れたのだろうと思うと、やっぱりどこか不思議な気分になるでちゅ。はーい。
ちょうどいま連載ちゃれている浦沢直樹の『20世紀少年』では、この万博の時代が関わる話が多くあることも影響ちていると思うでちゅ。ユカちゃんち引っ越しちゃうって、ホントかな? ほんとうは生まれていないワタチも、いくらか想像ちやちゅく、近づきやちゅい時代となっているでちゅ。いいなあ70年代でちゅ。
ロボットについて知らなかった流れがいっぱいあったでちゅ。ママ抱っこして。ちょれは現代のアイボにまでつながるものだでちゅ。やっぱりロボットはおもちろいでちゅ。ママー。

うっきー怒らないでね、オレが書いたんじゃないんだからね。
「幼児語変換」にかけたらこうなったしまったんだから。
「不眠日記」もかなりすごいことになっている。

9月17日
朝4時半頃から頭痛で目が覚めるでちゅ。ぼく3つなの。
5時なっても動けないでちゅ。体がだるいのだでちゅ。
案の定、外は雨でちゅ。ぼく一人でお留守番できたよ。
用意は全部出来て、あとは家を出るだけ、という段階なのに、ちょこからが動けないでちゅ。
悪い病気がまた復活ちてきたかでちゅ。だからもうユカちゃんとは遊ばない!
通勤拒否でちゅ。
次のバチュ、次のバチュ、次のバチュとのばちて行くが動けないものは動かないでちゅ。ママ。
もう分かったでちゅ。今日はお休みでちゅ。
家で読書ちようでちゅ。今日のママ、何だかキレイだよ。資料はまだいっぱいあるのだからでちゅ。
今日は家で1日お勉強でちゅ。
夕方になって、ゆっくりとお風呂に入るでちゅ。ぼく3つなの。
気がつけば、今日も朝から何も食べていないなの。
お風呂から上がって、どうちようかなあと迷っていたでちゅ。ママがおこりんぼなの〜。
別に空腹感はないのだでちゅ。あのオジさん変だよ!
ちかち、このところ、主治医の OK が出て以来、ちゅっと1日1食を続けているでちゅ。
たまには夕食を抜いてもいいか、面倒くちゃいち、おなか空いていないちでちゅ。どうしてなの、ママ?
と思っていると、電話がかかってきて、知人が夕食まだなら一緒に食べようというでちゅ。
拾う神とでも言おうかでちゅ。パパとママには内緒だよ。
近くで簡単に済まちぇたが、帰ってから、どうも調子が悪いでちゅ。
ちょんなにたくしゃん食べていないんだけどなあでちゅ。ぶーぶー。
明日は日文献でちゅ。そんなのずる〜い。
明日こちょ出勤ちぇねば、バイトがたまるでちゅ。
今日1日家にいたおかげで、本が一冊読めたでちゅ。良かった。
少ちづつ前進ちぇねばでちゅ。

うーむすごい。
マスモト・サチコの「とほほ留学生日記」もけっこう「いけそう」だ。
では実験開始。

le 14 Septembre
昨日の夜は、日本人だけのパーティーでちたでちゅ。おねいちゃんがぶったあ!!(号泣)
始まったのは、5時半ぐらいだと思うんでちゅけど、家に帰ったのは0時でちゅ。ぼく、おねむなの。でも、あっという間でちたでちゅ。
集まったのは17人ぐらいでちゅ。ほっぺた、ぷにぷに〜。
主催ちてくれたパン職人のタカしゃんには、ほんと感謝感謝でちゅ。
一応持ち寄りパーティーだったんでちゅけど、タカしゃん始め3人の人が一緒に「おでん」を作ってくれてたのと、「ちょうめん」を持ってきてくれてる人がいたのとで、日本の味を味わえて幸ちぇでちた! めちゃくちゃおいちかったんででちゅ。ママ、おしっこ〜!
あと、ケーキ職人の人がデジャート作ってくれたりもちて、ほんと最高でちゅ。このコーラっていう飲み物、お口の中が「しょわしょわ」するよ〜。

えー、どうもすみません。トンデモ変換のせいで、お口の中が「しょわしょわ」したみたいですね。
しかし、以上の実験から分かったことは、幼児語変換ソフトにかけられるとなんだか大変なことになるのは、「食についてのコメントの多い文章」「喜怒哀楽の感情表現の多い文章」であるということを知ることができるのである。
逆に言えば、主観的な感情や判断をまじえずに、淡々と客観的事実だけを書き記してゆくと、うまく幼児語にならない。
だから、この「幼児語変換」を逆用すれば、私たちの書くテクストの中の「主観的判断」と「客観的記述」の割合を吟味する上では、非常に有効なツールとなりうるということである。
ちなみに文学作品はどうだろうか?
カミュの『異邦人』で試してみよう。

今日ママンが死んだでちゅ。もちかしゅると昨日かもちれないでちゅ。ほっぺに「チュッ!!」あたちには分からないでちゅ。どうしてなの、ママ? 養老院から電報を貰ったでちゅ。「ママ上の死を悼むでちゅ。埋葬は明日」でちゅ。これではなんのことだか分からないでちゅ。恐らく昨日だったのだろうでちゅ。
養老院はアルジェから80キロのマランゴにあるでちゅ。そんなの、やだ〜〜。二時のバチュに乗れば、午後のうちにつくだろうでちゅ。ちょうちゅれば、お通夜をちて、明くる日の夕方帰って来られるでちゅ。あたちは支配人に二日間の休暇を願い出たでちゅ。こんな理由では休暇を断るわけにはゆかないが、彼は不満ちょうな様子だったでちゅ。
「あたちのちぇいではないんでちゅ」と言ったが、彼は返事をちなかったでちゅ。ママー。ちょんなことを言わなければよかったと思ったでちゅ。ユカちゃんち引っ越しちゃうって、ホントかな? とにかくいいわけめいたことを言うべきではなかったでちゅ。ばぶー。むちろあたちにお悔やみを言わなければならないのは彼のほうではないかでちゅ。ママ、おしっこ〜!

うーーーーむ。こ、これはすごい。